第1話 新月の夜
新月の闇に染まる中、ツクヨミは泣いている赤子をあやしながら自分の神殿を出た。
そして、庭に面した階にゆっくりと座って天を見上げる。
今宵は月も雲もなく、満点の星空が格別に美しかった。
高天原で一番高いこの山頂に神殿を作ったのは、この夜空が気に入ったからだった――が、今宵ばかりは、そのような美しい空に見入っているというわけにはいかない。
先ほど生まれたばかりの赤子が腕の中で激しく泣きわめいているのだ。
その泣き声はすぐ近くを落ちる滝の音より凄まじく、高天原中に聞こえていてもおかしくはない。
今頃、大騒ぎになっているやもしれぬ……。
高天原が生まれて数千年、この世界に赤子というものは存在したことがなかった。
神は人間のように赤子から成長するものではない。
生まれた時にはすでに神としての役割をもち、すぐにでもその霊力をふるえるよう、ふさわしい姿で生まれてくる。
一柱で何もできない赤子の神などいるわけがない。
「ツクヨミの命、皆この怪異に怯えておりますぞ」
そんな声と同時に、頭ほどの大きさのナキサワメ(泣沢女)の神がツクヨミの足元に現れた。
彼女は宙にふうわりと浮かぶと、赤子を覗き込んで唸る。
「人間との間の子じゃな。この高天原に置くには穢れておる。早く下界に降ろすのがよろしいのではあるまいか」
「このままでは無理ぞ。それにこの程度の穢れなど、吾にとっては微々たるもの」
「あれも含めて、そう仰せになるのか?」
ナキサワメは深い皺が刻まれた口元を歪め、神殿の戸口にかかる玉簾の方を一瞥した。
「昔ほどではなかろう。そう騒ぐでない」
ナキサワメは不満げな顔をしたが、反論はしてこなかった。
「それにしてもよく泣く子じゃ。何をそう哀しむのか」
わからぬ、とナキサワメはかぶりを振る。
ツクヨミは目を細めて微笑むと、まだ名も無き赤子に頬擦りした。
「まだ見ぬ父と母を恋しがっておるのだろう。あと少しの辛抱ぞ」
ナキサワメは呆れたように肩をすくめると、その姿を消した。
***
頼通が目を開いた時、最初に目に入ったのは久しぶりに見る母親、倫子の顔だった。
「よかった……」
倫子は涙をはらはらと落としながら、確かめるように頼通の頬を撫でる。
「ここは、土御門殿……?」
「いいえ、高倉殿ですよ。あなたが内裏で倒れて、十日も目を覚まさないと聞いて飛んできたの。でも、よかった……」
そう言って、倫子は咽び始める。
十日……。
それほど眠っていたとは信じられない。
しかし、彼女が嘘をついている様子がないところを見ると、真なのだろう。
眠る前にあったことがうろ覚えで、記憶が途切れている。
そして、頼通ははっと気が付いた。
「これは現つか……?」
「頼通、気は確かなの!?」
倫子が恐れをなしたような表情で頼通を見つめてくる。
「あ、いや……」
確か、自分は死ぬのではなかったか。
今、こうして生きていることの方が、おかしいのだ。
美濃は……?
彼女のことを思い出すと、頼通は居ても立ってもいられず、勢いよく起き上がった。
ずっと寝ていたせいか、頭の血が一気に下に流れ落ちて目眩がする。
「まだ寝ていなくてはだめです!」
「急用です。内裏へ行かなくては」
「内裏は焼けてしまったのですよ」
夢ではなかったのか――。
いまだ瞼の裏に残るあの禍々《まがまが》しい神火。
なす術もなく、ただ震えていたことを思い出して、顔が青ざめる思いだった。
「……母上、私はどうやってここに帰ってきたのです?」
「運ばれてきたと聞いていますよ。随身たちの話では、内裏の焼け跡で倒れていたところを見つけたとか。内裏を警護するのがお仕事とはいえ、もっと下の者にやらせればよろしいものを」
おそらく意識を失った時間と記憶の途切れた時間の差は、それほど大きくはないだろう。
しかし、その記憶の際が思い出せず、頼通は頭をかきむしった。
「今、里内裏はどこに?」
「枇杷殿よ」
「では、湯殿に行ってからすぐに出かけます」
「本当に行かれるの?」
頼通は渋る母親を余所にゆっくりと立ち上がり、湯殿に向かった。




