第6話 消える気配
振り返ったヨモツは、ナオクスヒメの姿を認めるや否や、驚愕に目を見開いた。
「何用……!?」
ナオクスヒメはその言葉を遮るが如くヨモツを押し倒すと、クラノオハバリを逆手に握り替え、彼女の腹に深々と突き立てた。
柄を握り締めた両手から、あふれるほどの霊力がナオクスヒメの身体に流れ込んでくる。
身体中に霊力が漲ってくるその感覚は、まさに望月の夜、いや、それ以上だった。
「汝、何を……!?」
ヨモツは信じられないといったように目を丸くし、乾いた唇を小刻みに震わせている。
あまりの苦しみに呼吸をすることすら忘れているのか、これほど間近に顔があるというのに、息遣いが全く感じられない。
「汝命はたった一人を愛するがゆえ、道を誤った。神の霊力はこの世を滅ぼすためにあるのではない……!」
ナオクスヒメは半眼を閉じて、流れ来る霊力が身体を熱くするその心地よさに陶酔していた。
まるで男に抱かれているような高揚は、目を潤ませ、息遣いを荒くする。
ヨモツはのしかかるナオクスヒメの身体を手で押しやろうとしたが、それも束の間のこと、ぱたりと床に落ちていった。
それでもまだ霊力の流れは止まらない。
いったいこの身体に、どれほどの霊力があるというのか。
ナオクスヒメはその計りしれない怒涛の勢いに、次第に恐怖を感じるようになった。
このままでは母上が……!
しかし、やめようにも、クラノオハバリが手に貼りついたように離れない。
嫌だ、殺すつもりなどない!
その時だった。ばしん、と全身を打ちつけるような衝撃が走ったのは――。
ナオクスヒメはその場に全身を叩きつけられ、うめき声を上げた。
「痛……っ」
身体を動かそうとすると痛みが走り、麻痺したように動かない。
しばらくの間、脂汗を浮かべ、ただ堪えているしかなかった。
やがて、徐々に強張った身体が楽になり、ゆっくりと目を開いた。
身体を起こして辺りを見回すと、一面に紅の霧が立ち込めている。
クラノオハバリは傍らの岩肌に突き刺さっていた。
神殿はいつのまにか消えていた。
ヨモツの気配もまた消えている。
「母上……!?」
一気に吐き気をもよおし、喉の奥が焼けたように痛み出した。
空いた両の手は無意識のうちに口元を覆う。
母上を殺してしまった。いや、喰ってしまった……!
ナオクスヒメは真っ青になって這いつくばり、荒い呼吸を繰り返して何とかその吐き気を抑えようとした。
それに加えて、俄かに得た霊力が身体を熱くし、胸の鼓動を激しく奏でる。
激しい悔恨の中で、ナオクスヒメは涙さえ出ず、灰色の硬い大地を見つめていた。
***
イザナキは遥か昔に一度だけ来たことのある、黄泉戸の近くまで来ていた。
いつか禊をした大きな川のほとりには、今では曼珠沙華と名付けられた花が見渡す限り一面に咲き誇っている。
その朱の色が空気まで染め、霞みがかるその向こうに黄泉戸のある切り立った高い崖が臨めた。
そこは昔と一点も違うところはなかった。
白装束をまとった死人の魂たちがイザナキの横を何人も通り過ぎ、誘われたように黄泉戸に向かってまっすぐに歩いていく。
そして、崖の真下、黄泉国を封じた岩戸の向こうに、次から次へとその姿を消していった。
誰も声を発することなく、辺りは不気味なほどに静まり返っている。
背丈ほどの岩戸の向こうからは、穢れた空気がかすかに洩れ出ていた。
イザナキはその場所で立ち止まって目を閉じ、ただ一人の気配を追った。
「汝妹の命……」
イザナキは今もなお愛しい妻のことを想い、懐かしさと共に悲しみも感じていた。
他ならぬ汝との間に生まれた中つ国だからこそ、吾はそこで生き続け、その行く末を見届けたかったというのに――。
しかし、愛の形があまりに違いすぎた。
彼の女神が他の男との間に子をもうけることなど、考えてもみなかった。
ナオクスヒメを一目見た時に感じたのは殺意だった。
このようなものは存在してはならない、抹殺しなくてはと。
しかし――。
イザナキは自嘲して、小さく笑った。
「あの娘、汝と同じ顔と同じ声で泣いた。同じ言葉で、吾に助けを求めてきた。再び汝の最期の姿を見ねばならぬとは――」
酷くはあるまいか?
その届かぬ問いかけと同時に、追っていた気配はふつりと消えた。
イザナキの目から涙があふれ、こぼれた一粒が頬を伝った。
「さあ、もう終わりにせねばならぬ」
イザナキは涙を袖で拭うと、のろのろと進む死人たちを追い越し、岩戸の前に立った。
黄泉国を司る神の消滅により、黄泉に入れなくなった死人たちの間には、不安げな囁き合いが始まり、じわりじわりと辺りにその波紋を広げていく。
イザナキは岩戸に手をかけ、一気に黄泉路を押し広げた。
刹那、激しい風が黄泉から吹き出し、イザナキの髪を舞い上がらせる。
その風に乗って、黄泉へ行くのを拒んだ幾多の悪霊たちが、イザナキの脇をすり抜け、まっしぐらに中つ国へ向かって飛んでいった。
イザナキは大きく両の手を広げ、この先に捕われた八百万の神々に、あらん限りの霊力を放出した。




