第5話 イザナキの提案
ナオクスヒメが固唾を飲んでイザナキを見つめていると、彼はふと口元に冷笑とも呼べるものを浮かべた。
「気味が悪いほど、あれによく似ておる。道理で頼通が惹かれるわけぞ」
侮蔑の意を込めたイザナキの言葉に、ナオクスヒメは全身の血が沸騰したかと思うほどに熱くなった。
「それだけ汝命がイザナミを愛しておったからではないのか!? だから、頼通の夢にも現れたのだろう!?」
イザナキは呆れたように肩をすくめると、流れるような仕草で髪をかき上げた。
「何を戯けたことを。吾の記憶のかけらを頼通の中に呼び込むきっかけを作ったのは、汝ぞ。汝たちは出会うべきではなかった」
ナオクスヒメは切れるほどに唇を強く噛み、拳を握り締めた。
イザナキに言われなくても、頼通がイザナキの器だったことを知って以来、ナオクスヒメも何度も同じことを思ってきたのだ。
出会うべきではなかった。
それでも、出会ったおかげで愛し、愛される喜びを知ることができた。
世界の滅びにさえ関わらなければ、頼通と出会ったことに後悔はなかった。
この先も後悔することがないように、子をもうけたのだ。
そのはずだったのに――。
「……しかし、出会ってしまった。そして、吾は汝命を見つけた。ヨモツの思惑通り、この世が混沌に還るのは、神々の霊力すらも及ばぬ、宿世の流れというものだろう」
「全てはもう遅い。だから、吾に黄泉へ行け、と」
イザナキはそう言ったかと思うと、肩を震わせて笑い出した。
その笑い声の中、ナオクスヒメは次第に不安が身を襲ってくるのを感じた。
不意に笑いが止まったかと思うと、イザナキは剣呑とした眼差しで、ナオクスヒメを射ぬいた。
「あれは一つだけ失敗した。全ての神を黄泉に誘うべきではなかった」
「つまり……?」
「わからぬか。汝をここで消せば、二人目のナオクスヒメは生まれぬ。この世の滅びに繋がる神は、永遠に現れぬということぞ」
ナオクスヒメははっと目をみはって一歩身を引くと、クラノオハバリを構えた。
イザナキの放つ鋭い殺気に、背筋に冷たい汗が一筋流れていく。
「吾を殺すのか……?」
「逆に吾を刺し、この世が滅びたとしても、汝はやはり消滅する。同じことではないか」
イザナキの感情のかけらもない言葉に、ナオクスヒメは愕然とした。
そう、いずれにせよ自分はこの世から消える宿世にあるのだ。
ならば、この世の存続のために、脅威となっている自分一人が死ぬことが最善の手。
二度とこの世が危険に晒されることはなくなる。
神でも人間でもない、この身体を持って生まれてきたことを何度も呪った。
神と人間の世界、どちらにも属すことのできない孤独を抱えて、嘆きながら生きてきた。
しかし、今は違う。
これほど生というものを渇望したことは、いまだかつてなかった。
この世が滅ぶのでないならば、今はまだ死ぬことはできぬ。
せめてこの子が生まれるまでは……!
ナオクスヒメは自分の腹に空いた手を置いた。
いや、とナオクスヒメはかぶりを振った。
吾もまた生きねばならぬ。
子を慈しみ、共に生きることを誓ったのだ。
どうして違えることができよう。
「汝、孕んでおるのか」
イザナキの問いに、ナオクスヒメは小さく頷いた。
「残念だったな。もろともに魂となって、黄泉へ行くがよい」
イザナキの言葉に容赦はなかった。
それがナオクスヒメの心の琴線を裁ち切っていた。
「嫌だ、まだ死にたくない……!」
ナオクスヒメは顔を真っ赤にして叫び、クラノオハバリに寄りかかりながらその場に座り込んだ。
そして、「死にたくない」と何度も繰り返し、あふれる涙を払うことなく落とし続けた。
たった一つの願いすら叶えられず、死んでいくのが吾の宿世なのか!?
こんな宿世は認められぬ、絶対に……!
ナオクスヒメは重い頭を上げ、涙で霞む目でイザナキの姿を捉えた。
「吾にはやるべきことが残っておる。イザナキの命、どうか助けを……!」
一瞬、イザナキが怯んだように見えた。
ナオクスヒメが不可解に思っている中、イザナキは一歩一歩、近づいてきた。
もはや、これまでなのか……。
「汝は一番ずるい方法を取るのだな」
イザナキの声は異様に静かで、どこか諦めが感じられるものでもあった。
「イザナキの命……?」
ナオクスヒメはわけがわからず、ただイザナキを見つめていた。
その目の前で、彼はアメノオハバリを薙ぎ払って消す。
気付けば、イザナキからいつのまにか殺気が消えていた。
「汝が生きる方法がないわけではない」
「え……?」
「吾が黄泉戸を開いて、捕えられた神々の魂を浄化し、高天原に還す。幸い器までは滅びておらぬ。すべてはあるがままに戻る」
「汝命にはその霊力がある、と……?」
ナオクスヒメは半信半疑で問いかけ、涙の止まった瞳でイザナキを凝視した。
「不可能ではない」
「この世が滅びることなく、吾もまた生きられるというのか……!?」
イザナキが頷くのを見て、ナオクスヒメは俄かに胸が高鳴るのを感じた。
「しかし、それには汝も動かねばならぬ」
「どうすればよい!? そのためならば、何でもしよう!」
ナオクスヒメは即座に立ち上がっていた。
「ヨモツは霊力を持ちすぎている。今の状況であれに逆らって、吾が八百万の神を黄泉から復活させるのは不可能」
ナオクスヒメはイザナキがゆっくりと言葉を綴るのを、もどかしい思いで聞いていた。
早く結論を言ってほしいという焦燥が胸を駆け巡る。
「吾は黄泉へは行けぬ。汝があれの、ヨモツの霊力を奪え」
「ヨモツの霊力を? どのようにして?」
「そのクラノオハバリ、それで突けばよい」
「そのような使い方があるのか……?」
「その神剣も汝と同様、ヨモツとツクヨミの霊力から生まれたもの。ヨモツと汝の霊力を媒介できる」
ナオクスヒメは長年付き合ってきたクラノオハバリを月明かりに掲げ、目を瞬かせた。
「信じる信じないは、汝の勝手ぞ。いかがする?」
もしもこの話が真実ならば、この世の全てが元通りになる。
神々はヨモツから解放され、再びこの世を守る霊力を得られる。
そして何より、ナオクスヒメ自身も悪霊退治の穏やかな日々を手に入れることができるのだ。
子を産み育て、孤独だった日々とは決別した幸せな生が待っている。
迷いなどあるはずもなかった。
ナオクスヒメは決意と共に、イザナキを見つめた。
「やる」
「ならば、疾く行け。そして、吾がもとに帰って来」
ナオクスヒメは緊張に肌が粟立つのを感じながら、クラノオハバリを構えた。
勝負は黄泉に入った瞬間。
不意を突かなければ、ヨモツの霊力で吹き飛ばされてしまう。
最悪はそのまま死が待っている。
黄泉への道を再び開き、一気に押し入った。




