第4話 この世の滅び
中つ国――承香殿の上に戻ったナオクスヒメは、燃え盛る炎の向こうに見える京の都をぐるりと見回した。
二百年かけて築き上げられたこの広大な都は、増え過ぎた人間たちの死によって穢れにまみれ、いつ滅んでもおかしくはなかった。
それがまさか、今すぐ自らの手で滅ぼさなければならなくなるとは、思ってもみなかった。
しかも、都だけではない。
四方を囲む山々を越えたその向こうまで広がる中つ国までも――。
明日の朝には、すべて海の藻屑となって消え果てる。
すべてが喪失した後、自分はどうなるのか。
頼通との間に生まれるはずの子の宿世は――。
この世を守ってきたアマテラスを始めとする八百万の神々の霊力が及ばない今、誰もナオクスヒメを止められない。
ヨモツに打ち勝つ霊力などない自分には、選択肢は一つしか残されていなかった。
やるしかないのか――。
「気は済んだか?」
オオマガツヒは全てを見通しているのか、それ以上は何も聞かなかった。
ナオクスヒメはオオマガツヒに視線をゆっくりと移し、小さく頷いた。
それを合図にオオマガツヒは頼通を引きずり上げ、その両手首を後ろに掴んで、ナオクスヒメの方へ向かせた。
頼通は抵抗する様子もなく、すでに正気を失ったように焦点の合わない目で、ナオクスヒメの方を見つめていた。
「頼通……」
ナオクスヒメは切なさに胸が苦しくなった。
彼をイザナキだと思うことなど不可能だ。
手にしていたクラノオハバリを握りしめても震えるだけで、身体が動かない。
ただ、涙だけが目にあふれてくる。
「さあ、ナオクスヒメ、愛しい男を切り刻め! この炎の舞台を血で染めろ!」
自分もまた消える宿世にあるというのに、オオマガツヒだけは狂ったように興奮していた。
それは驚くことではない。
これこそがオオマガツヒがこの時まで大事に取っておいた『大きな楽しみ』だったのだから。
最高にいい気分なのだろう。
オオマガツヒが声高らかに笑い続けるのを、ナオクスヒメは涙に霞む目で睨みつけた。
「汝も吾も、これが最期」
ナオクスヒメはぎゅっと目を閉じ、かぶりを振って涙を払った。
「頼通、すまぬ」
ナオクスヒメは一言言い置いて、剣を脇に構え、頼通に向かって駆けた。
「母上、これで満足か!?」
ナオクスヒメは涙でかすれる声で叫びながら、頼道に向かって剣を振り下ろした。
――が、まさに頼通の肩に刃が触れる瞬間、ナオクスヒメの目の前で、黄金の光が炸裂した。
同時に起こった爆風で、後方に吹き飛ばされる。
何が起きたのかわからないまま、ナオクスヒメの身体は屋根の上を越え、地面に向かって落ちていった。
見開いた目には、宙を舞い乱れる自分の髪と、月の姿だけが映っていた。
このまま地に叩き付けられれば、間違いなく吾は死ぬだろう。
それも、いいのかもしれない。この煩わしい宿世から解放される――。
しかし、それは許されなかった。
背中に衝撃は受けたものの、月の出ている間の身軽さゆえ、地面にごろりと転がっただけだった。
ナオクスヒメは横たわったまま、束の間何も考えられず、ただ茫然としていた。
ややあって隣を見ると、オオマガツヒが同じように仰向けに倒れていた。
まるで人形のように生気を感じられない。
死んでいるようだった。
「頼通は……!?」
彼のことを思い出し、ナオクスヒメは飛び起きると、再び屋根の上に舞い上がった。
そこに佇んでいたのは、白光りする十拳の剣を片手にした白い長衣姿の男だった。
その男は一見、女かと見紛うほどの長い髪をその身にまとわせ、静かに俯いている。
明らかに頼通ではない。
何よりその身から発せられる清浄な霊力は、穢れを持つナオクスヒメを圧倒し、震えさせるほど絶大なものだった。
オオマガツヒはこの霊力のもとで浄化され、身体を維持することができなくなったのだろう。
そして、器であった彼の身体は、ただの肉の塊と化してしまったのだ。
オオマガツヒの膨大な霊力をも浄化できる神となると、思いつく限りではたった一柱――。
「イザナキの命……?」
ナオクスヒメが恐る恐るその名を呟くと、彼はゆっくりと顔を上げ、横髪を後ろに払った。
その現れた顔にナオクスヒメは少なからず驚いた。
ヨモツによく似たその顔の造り、まっすぐにナオクスヒメを見つめる双眸は、彼がイザナキだという証拠でもある。
二人は一つの魂を分かち合った兄妹だ。
そして、彼が手にしているのはイザナキの神剣、アメノオハバリ(天之尾羽張)に違いない。
「汝に会うのは初めてだったな、ナオクスヒメ」
感情のこもらない冷たく低い声は、頼通のものとはまったく違うものだった。
身も凍りそうな眼差しが語るのは、ただ殺意のみ。
イザナキはにこりともせずに、ナオクスヒメを静かに眺めている。
「頼通を消したのか……?」
「いや。吾の中で眠っておる。吾が今までそうしてきたように」
その方がナオクスヒメにとっては好都合だった。
少なくとも、頼通に刃を向ける必要はなくなった。
何ら感情を抱いていないイザナキを黄泉に送ることくらい造作もない。
しかし、それは感情面での話。
実際問題として、彼とナオクスヒメの霊力は、明かに差があり過ぎた。
イザナキが今、姿を現したその意味は――?




