第3話 行き場のない愛
ナオクスヒメはヨモツの神殿の前に立っていた。
相変わらず天空からは紅い霧が降り注ぎ、神殿を荘厳に浮び上がらせている。
今はこの世界にさまよう魂たちの儚い光を見ても、陰鬱になる余裕などなかった。
ナオクスヒメの胸を占めるのは、ただ怒りだけだ。
ナオクスヒメは足音も荒く階を駆け上ると、一気に扉を開け放った。
ヨモツはすでにナオクスヒメの訪問を知っていたのか、驚くことなく迎え入れる。
「何をそう怖い顔をしておる」
ヨモツは口元に笑みを絶やさず、領巾をもてあそんでいる。
ナオクスヒメは冷静に話を始めようと、静かに息を吸った。
「どういうことか、聞きに来たのです」
ヨモツは珍しく不機嫌そうに眉宇をひそめた。
「あれが余計なことを話したか。知らずにいた方が簡単に事が済んだものを」
「母上は禁忌と知っていながら、吾にイザナキを探させていたのですか?」
「禁忌? そのようなもの、誰が定めた? 天と地もわかず、神も人もない、ただ開闢の前に戻すだけぞ。吾が創ったものを己で壊して何が悪い」
ヨモツは悪びれることなく言ってのけると、倚子に優雅に腰を下ろした。
「ツクヨミもまた、イザナキを黄泉に送ることがどういう結果をもたらすかを知っていて、吾をもうけたのですか?」
「高天原の神々で知らぬ者はおらぬわ。ただ、過信はしておったがな。彼の命を汝から護れると。吾が高天原を滅ぼせる霊力を持つことなど、想像だにしておらなかった。愚かな神々よ」
ヨモツはそう言って、高らかに笑った。
高天原の神々で、知らぬ者はいなかった……!?
ナオクスヒメはヨモツの言葉が胸に突き刺さり、その痛みに倒れそうになった。
『何も知らず、舞い続けた哀れな舞姫』
オオマガツヒも確かにそう言っていた。
イザナキを黄泉に送る意味を知らなかったのは、どうやらナオクスヒメだけだったようだ。
イザナキを探すために男に抱かれるナオクスヒメを見て、高天原の神々は滑稽だとさぞかし笑っていたことだろう。
見つけたとしても、殺すことなどできないのに。
なんと無意味なことをしている神がいるのか、と――。
ナオクスヒメは気が付くと床に倒れ込み、手を付いて涙を流していた。
あふれる涙が止まらない。
生まれてこの千歳、何の疑いもなく、神としての使命を果たそうとしてきた自分が情けなかった。
「そう嘆くでない。邪魔者は消した。今こそ、汝は神としての役目を果たせるのだぞ。喜ぶがいい」
「喜ぶ……?」
ナオクスヒメは涙を拭くのも忘れ、顔を上げてヨモツを睨みつけた。
「この世を滅ぼすことが使命と知って、喜ぶとお思いですか!? 愛してもいない男の子をもうけてまで、なにゆえ、この世を壊そうとするのです!? 中つ国は汝命とイザナキが確かに愛し合ったという証でしょう!? その中つ国まで消すのですか!?」
ナオクスヒメはヨモツの想いがどうしても理解できなかった。
今、ナオクスヒメの体内には新しい命が宿っている。
それは頼通という一人の男を愛した証。
それを自ら殺すことなど、永遠にありえない。
そう思うからこそ、ヨモツの行動は計り知れなかった。
「ナオクスヒメ、聞くがよい」
ヨモツの声は神さびた大神らしく、厳かな響きを持っていた。
「愛とは移ろいやすいもの。愛するが故に、憎みもする。恨みにも変わる。愛と永遠という言葉は混じり得ない。愛を初めて知ったばかりの汝にはわからぬだろうが」
オオマガツヒがかつて似たようなことを言っていた。
『そんな愛は、彼女がイザナミでなくなった時に、とうに終わっているんだよ』
ヨモツの愛はナオクスヒメの感じるものとは違う、と。
「吾は死を迎えてこの黄泉にたった一人、閉じ込められて孤独だった。
最初はただ逢いたかっただけぞ。ほんの一瞬でもいい、この目で別れてもなお愛しい汝兄の命をとらえたかった。だから、彼の命が迎えに来た時はこの上なく嬉しかった。
しかし、彼の命は吾が愛しいと思うほどには、想ってはくれなかった。吾を捨て、中つ国を選んだ。吾にとって、この世が滅ぶことなど、些細なことでしかなかったのに――」
ヨモツは静かに目を閉じた。
ナオクスヒメはその眦に光るものを見て目を疑った。
「だから、彼の命を黄泉へ誘うことにもためらいはなかった。しかし……!」
ヨモツはかっと目を見開いたかと思うと、血走った瞳でナオクスヒメを睨んできた。
「器を捨ててまでも中つ国に固執し、吾から逃げ続けた。げに許しがたきこと……!」
ヨモツは初めて感情を露わにし、顔を赤く染めて肩を震わせていた。
ナオクスヒメはそんな母親を直視することもできずにただ俯いた。
「確かに、中つ国は吾が背との愛の証。だからこそ、愛が終わった時、存在してはならぬものとなった」
『愛するが故に憎む』
ヨモツは確かにそう言った。
母上はいまだイザナキを愛しておるのか……。
ナオクスヒメはそれがヨモツの浮かべた涙のわけだと思った。
そして、初めて母親を憐れんだ。
途方もない年月、孤独の中でたった一人を想い続けてきた愛の深さ。
しかし、一方的な愛が幸せを呼ぶことは決してない。
愛すれば愛するほど、憎しみに変わっていったとしてもおかしくはない。
やがて、行き場のない愛と憎しみの矛先は、二人で共に築き上げた中つ国へと向かって行く。
ナオクスヒメはヨモツがなぜここまでこの世の滅びに執着するのか、ようやくわかったような気がした。
「話は終わりぞ。疾く吾が背を黄泉へ送れ」
ナオクスヒメは拳を固く握り締め、俯いたまま動けなかった。
今やヨモツの気持ちがわからないわけではない。
だからといって、イザナキを黄泉に送ってよいものか。
この世の宿世が全て自分のものとなり、その事実が重くのしかかってくる。
どうすべきなのか、判断できない。
突然の大きな音にナオクスヒメはびくりと震え、反射的に顔を上げていた。
倚子を倒したヨモツが立ちはだかり、殺意に満ちた目で見下ろしている。
「何を迷うておる!? できぬというのなら、汝をここで殺る!」
ナオクスヒメは全身に殺気を受け、震える足で無理やり立ち上がると、逃げるように黄泉を後にした。




