第2話 禁忌
後宮の奥の方から火の手が上がった頃、ナオクスヒメは頼通がいるだろう宣陽門の上にいた。
大内裏にいた人間たちが内裏の一大事に、我先にと門をくぐり抜けていく。
――ナオクスヒメ!
刹那、脳裏を打ちつけてきたオオマガツヒの声に、ナオクスヒメは口元を歪めて歯噛みした。
彼が何かを企んでいるのは一目瞭然。
この内裏の惨状を見れば、すでに彼は動いている。
――汝の仕業か!?
おかしくてたまらないといわんばかりの低い笑い声がナオクスヒメを苛立たせる。
――承香殿まで来い。お前の探している者はここにいる。
「あやつ……!」
ナオクスヒメは目の前の温明殿に跳ぼうとしたが、突如激しい音と共に、そこから炎が噴き上がった。
時待たずして、その隣の綾綺殿も火に包まれる。
火の粉は風に遊ばれることなく、ひらひらと気まぐれに落ちて、ナオクスヒメの鼻先をかすめていった。
逃げる者と火を消そうとする者がぶつかり合い、地上は大混乱になっている。
ナオクスヒメは腹立たしく思いながらも、仕方なく門から飛び降り、這いずる人間の合間を縫って承香殿まで走った。
積もりに積もった雪は炎の熱さで急速に溶け、辺りを洪水のように水浸しにしている。
走りづらいことこの上ない。
まったく、余計なことをする……!
承香殿は何かに覆われたように火の粉を遠ざけ、大火の眩しい明かりの中、その姿を赤く鮮やかに浮かび上がらせていた。
ナオクスヒメは高欄を踏み台に勢いよく屋根に飛び乗った。
そこには棟木に立つオオマガツヒと、その脇で座り込んでいる頼通がいた。
「さあ、舞姫の御到着だ」
オオマガツヒは白い狩衣を赤く染めて、さもうれしそうに笑った。
「なにゆえ、汝がここにいる? 吾がいつ殺ろうと関係なかろう」
「この世が終わりを告げる記念すべき一夜。立ち合わせてもらおう」
「この世の終わり、だと……? どういう意味ぞ?」
激しく睨みつけるナオクスヒメをオオマガツヒは嘲笑った。
「お前の鈍さ加減には驚きを超えて笑わされる。何も知らず舞い続けた哀れな舞姫よ」
「吾が何を知らぬと言う!?」
「今宵、ヨモツ大神とイザナキの霊力は一つのものとなり、三世界は混沌に還る」
「何を戯けた。そのようなこと、他の八百万の神が許すわけが――」
「そう、許すわけがない。いや、正確には許されないことだった、か」
まさか、とナオクスヒメは目を見開き、口元を手のひらで覆った。
あの時――高天原に初めて入った時、気付くこともできたのだ。
その原因を最後まで突き止められなかったのは――。
「吾を騙したな」
「騙すとは人聞きの悪い。誤魔化したのは認めるが」
開き直っているオオマガツヒに、ナオクスヒメの苛立ちはさらに増す。
「あの時、すでに神々のすべては黄泉へ導かれていた。ヨモツ大神の手によって……!」
顔色一つ変えないオオマガツヒの表情が肯定と取れた。
今や、日が昇るのも月が昇るのもヨモツの霊力。
八百万の神々の霊力は彼の女神に宿っている。
ナオクスヒメはその事実を知り、目の前は真っ暗になって、唇がわなわなと震えた。
「なにゆえ……? 高天原を滅ぼすほどの霊力を、たった一人の神が有することなどありえぬ。ヨモツはどのようにして、やってのけた……?」
誰か協力者がいなければ――。
そこまでたどり着いて、ようやく目の前で余裕の笑みをたたえ、腕を組んでいる男に気が付いた。
「汝か……!」
「お前はかつて俺に聞いたな。そのような余りある霊力を持って、どうするのかと。無限に増え続ける霊力を、彼の神に与えていたとしたら?」
ああ、とナオクスヒメは嘆息した。
なぜ、気が付かなかったのか。
このあふれる穢れの中、オオマガツヒの霊力はかなりのものだったが、一定に保たれていた。
つまり、どこかで禍を起こして、余剰の霊力を消費していたことになる。
しかし、ここ最近大きな災害はなかった。
それこそがオオマガツヒの言葉が真実である証拠だった。
「なにゆえ、汝がヨモツに荷担する?」
「荷担したつもりはないが。俺は俺のためにやったまでのこと」
「汝の目的とは?」
「ただこの煩わしい肉体から自由になりたかっただけさ。それには女を一人殺さなくてはならなくてな」
「汝の母親か」
ナオクスヒメがそう言うと、オオマガツヒは心底嫌そうな顔で睨みつけてきた。
「あれは母親などではない。このオオマガツヒの神の母親になったつもりの憐れな女さ」
「ならば早々に殺せばよかったもの。たった一人の人間を殺すために、ヨモツの霊力が必要だとは思えぬ」
「そりゃ、何度も殺そうとしたさ。しかし、あの女、刺し殺しても、縊り殺しても生き返る。誓約した時点で、俺の加護を得ていたんだ。
しかも、屍を喰らうたびに、その加護は強力なものになっていく。そんな人間を殺すことはできない」
「それで、女を殺してもらうためにヨモツに霊力を渡しておったのか? この三世界を滅ぼすことが目的と知っても。この世が消えれば、汝もまた消えるのだぞ。そこに何の意味がある……!?」
「意味? 俺は禍がこの上なく好きだ。禍を起こすことこそ、俺が生まれてきた意味。この命に代えて起こせる禍がこの世の滅びとは、実に喜ばしいことではないか」
ここまでオオマガツヒが愚かだとは思わなかった。
とても正気の沙汰とは思えない。
「狂っておる……!」
「この俺がか? 戯言はよせ。イザナキがイザナミと別れた時点で、この世は最初から滅びに向かっていた。俺は引導を渡したまで」
この世は滅ぶ宿世にあった?
ナオクスヒメは自分がこれまでしてきたことを振り返り、絶望していた。
最初からイザナキを黄泉に送ってはいけなかったのだ――。
何のために吾は千歳もイザナキを探し続けてきた!? この世を滅ぼすためか!?
ヨモツが愛する男に再び逢いたいがために、イザナキを探させていたと思っていた。
しかし、そのこと自体が禁忌だったのだ。
ヨモツに騙され続けてきたことに、憤りで目が眩む。
「許せぬ……!」
ナオクスヒメはクラノオハバリを両手に握り締めると、黄泉路を開いた。




