第6話 愛しき背子
六章最終話です。
少女は半眼を閉じて、倚子に腰掛けていた。
目に映るのは灯皿が四方に置かれた板壁の簡素な部屋。
調度品はこの倚子一つ。
そんな景色は見飽きるのも通り越し、いまや目にするすべてのものに、何の感慨もわかなかった。
ほとんど誰も訪れることのないこの広い世界にたった一人でいる孤独も、もはや無縁のものとなっている。
今はただ、ひたすら中つ国の人間共から、その魂を誘う。
魂となる瞬間の嘆きと叫びに耳を澄ませ、その奏でる音色に身を委ねるだけだ。
しかし、胸の底には消そうとしても消せない、腹立たしさがいつも沈んでいた。
自分の膨大な霊力を以てすれば、中つ国の住人を全て消すことなど造作もないと思っていた。
しかし、殺しても殺しても人間は増え続ける。
それもこれも、あの男のせいだ。
忌々しい。
少女は唇を噛み締め、目の前にはいない唯一愛憎を抱かせる男を睨みつけた。
まあ、よい。あと少し。ほんの少しの辛抱ぞ。
気を取り直して、再び魂たちの叫びに耳を傾ける。
その時、不意に空気が乱れた。
少女は侵入者を迎え入れるため、倚子から立ち上がって扉を開いてやった。
紅い霧の向こうから人影が近づいてくるのが見える。
やがて、姿を現したのは見知った男だった。
「呼んだ覚えはないが?」
対峙した男は冷笑ともとれる不敵な笑みを浮かべて女の脇をすり抜け、倚子に身を投げ出した。
「せっかくここまで自由に出入りできるようになったんだ。神殿くらい見たくなるってものではないか?」
子供のような笑顔を向ける男に、少女は小さく息をついた。
「物好きもおったものよ」
生ある者は神といえど、この世界の入口でしかその存在を保つことはできない。
入ったと同時に肉体は昇華し、魂と化してしまうからだ。
それでも例外はいる。
どうやらそのうちの一人は、この男になるらしい。
今やこの男の霊力は、この世界を維持する礎と見事に調和し、この神殿までも堂々と入り込めるようになっていた。
「いらないのか?」
男はそう言いながら、長い足を組んで少女を見上げた。
「いや、もらおう」
少女はいつも通り、男の首に腕を伸ばして目を閉じた。
腕を通して男の穢れた霊力が身体に流れ込んでくる。
穢れは少女にとっても最高の霊力の源。
穢いほどに身にまとう霊力は増す。
やがて、全身が有り余る霊力に火照った頃、少女は目を開き、自分を涼し気な目で見つめる男の首筋から手を離した。
「未だあれは気付かぬのか?」
「おそらく」
「吾が子とは思えぬほど、愚だな」
苛立つ気持ちを抑えるように、領巾を軽く振りながら踵を返した。
「何をそう焦る? 千歳に比べたら、たかが数日のことで見苦しい」
少女は舌打ちして、倚子に座る男を振り返った。
「あれがもたもたしていたおかげで、千歳もぞ」
「それに」と、少女は口にするのを迷いながらも、思わず呟いていた。
「嫌な予感がするのだ」
少女の言葉に男は吹き出して笑う。
「あなたらしくもない。今や全てをその手の内にしているというのに、何をそう怖れる?」
「吾にもわからぬ」
「あれが気に入らないなら、もう一人子をなしたらどうだ? 駒は多い方がいいのだろう?」
男はゆっくりと立ち上がると、長い解き髪をかきあげながら部屋を出ていった。
ああ、その通りかもしれぬ。だが、もう遅い。
少女は少なからず後悔を抱きながら、男が先程まで座っていた倚子に腰を下ろした。
そして、ただ一人のことを思う。
この世で誰よりも愛しき背子のことを、この世で誰よりも憎きイザナキのことを――。
再び見える日はもうそこまで来ている。
少女――ヨモツがうっとりと唇を舐めたその時、扉が再び開かれ、幻影の中の男は忽然と姿を消した。
静かに入ってきた少女を見て、まるで鏡を見ているようだとヨモツは思う。
「何用ぞ?」
ヨモツは肘掛にもたれながら、この世界に出入りできるもう一人の例外を見やった。
「見つけました」
ヨモツが最後に生んだ娘は、一言告げるなり戸惑ったような顔をしていた。
「なんぞ?」
「……いえ。もう少し何らかの反応があるかと思っておりましたので」
ヨモツは頬杖をつくと、喉を鳴らして笑った。
「それには少々遅すぎたな。して、報告する前にすべきことがあるのではないか?」
娘は一気に顔を曇らせて唇を噛み締めると、顔を背けた。
「そのことですが、待ってほしいのです」
「待つ? 待てと申すのか」
笑止千万、とヨモツは口元に笑みを浮かべた。
「寿命が来るまでとは言いません。あと二十年、いえ、十年でも良いのです!」
珍しく感情あらわに訴える娘を好ましく思う一方で、この態度を許しがたく思うのも真実だった。
「ここまで待てたのならば、たかが数十年のこと。お願いです」
「惚れたか」
娘は言葉に詰まり、拳を握り締めて俯いた。
「……その通りです」
「母娘そろって同じ男に惚れるとは。吾が血がそうさせるのかのう」
ヨモツは唇を軽く人差し指で撫でながら、娘を感慨深く見つめた。
「違います。好きになった男が、たまたま汝命の背だったというだけのことです」
「待てぬ」
ヨモツは遮るように短く、鋭く言い放った。
「然る間にも、その男が死んだらどうする? 汝の霊力は月夜にしか効かぬ。男が死ぬまで護り切れるとでも申すのか? 再び吾が背を逃すのが目に見えておる」
「それは、そうですが……」
「ならば、疾くその剣で刺して来」
娘は剣呑とした光を目にたたえると、黒く閃く剣を軽く掲げた。
「汝に吾は殺せぬ。死にたいか?」
霊力の差は歴然。
襲いかかってこようものなら、消滅させてやろうぞ。
ヨモツの無言の言葉が伝わったのか、娘は目元を緩め、ため息混じりにはかなく消え入りそうな笑みを浮かべた。
「吾が死ぬか、彼が死ぬか。汝命はそうやって微笑みながら、むごい選択をさせる」
「能書きは結構。いかがする?」
「やるしかないでしょう。吾は汝命の駒なのだから――」
顔を隠すように娘――ナオクスヒメは身をひるがえすと、中つ国に帰っていった。
あれはいずれ、吾の邪魔をするやもしれぬ。
ヨモツはその後姿を見送りながら、人差し指で唇を弾いた。
次話より七章が始まります。
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