第4話 嫌な予感
未だ解けない雪が月の光に煌いて、いつになく都は明るかった。
ナオクスヒメは屋根の上の雪を蹴散らしながら、高倉殿へ向かって跳んでいた。
千鶴の訪問により、うかうかと部屋に籠もっているわけにはいかなくなった。
隆姫の状況いかんによっては、頼通の命が危ない。
色恋抜きで、頼通を勝手に殺されてしまうわけにはいかないのだ。
殺すことはないと隆姫に伝えれば、おそらく心の病も治っていくだろう。
それとも正気に戻り、自分の乳兄弟を手にかけてしまったことを知ったら、余計にひどくなるか。
たどり着いた高倉殿は気味が悪いほど静かだった。
普段なら真夜中でも家人が警護のために徘徊しているというのに、今日は一人も姿がない。
ナオクスヒメは女房の気配を探りながら、北の対屋の簀子縁に飛び降り、遣戸から身舎に入った。
火の入っていない室内はかなり暗く、明かりは格子越しに入る月の光くらいしかない。
そこに人がいる気配はなかった。
ふと気が付くと、足元におびただしい血を拭き取った跡が生々しく残っている。
千鶴がここで殺されたというのは、容易に想像できた。
おらぬのか……?
ここにいないとなると、隆姫は頼通と一緒にいる可能性が高い。
頼通と関係を持っている以上、どんな理由があれ、夜更けに夫婦の寝所に押し入るようなことは遠慮したいと思ってしまう。
ナオクスヒメはとりあえず隆姫に会いに行くことを中断し、月明かり冴えた冷え込む簀子縁に出、そのまま屋根の上に舞い上がった。
「さて、どうすべきか……」
問題は隆姫のことだけではない。
イザナキをどうすべきか、いまだ決めあぐねているところだ。
ナオクスヒメは空に浮かぶ月を睨むように見つめながら座り込むと、頬杖をついて大きなため息をついた。
「なんだ、ため息などついて」
突然のオオマガツヒの出現に、ナオクスヒメはびくりと肩を震わせた。
「……汝は本当、神出鬼没なやつだな」
「当たり前だ。俺は神だぞ。戯れで言っているのか?」
「いや、あいにく戯れ事を言っていられるほどの余裕は――」
ナオクスヒメはそこまで言って、出そうとした言葉を呑み込んだ。
オオマガツヒにイザナキのことを知られてしまえば、ヨモツにも伝わってしまう恐れがある。
「ところで、汝は何をしておる? このようなところで」
ナオクスヒメは自分の話からそらすために問いかけた。
オオマガツヒは何かを探るような目でナオクスヒメを見ていたが、やがて隣に腰を下ろした。
「ここはなかなか心地がよい。死の穢れがいまだ漂う。あのタマヨリの女、お前が手を下す間もなく死んだのだな。惜しいことを」
言葉通り、オオマガツヒはいかにも残念そうな顔をしている。
「これに懲りて、楽しみを後に取っておくのはやめることぞ」
「大騒ぎするような楽しみではなかったから、俺は気にしていないさ」
「負け惜しみを」
「嘘ではない。これから大きなお楽しみが待っているからな」
オオマガツヒは胸を張って、にやりと嫌な笑い方をする。
彼が『大きな楽しみ』と言うからには、かなり大きな禍が近いうちに降りかかるということだ。
「ほどほどにしてくれるとありがたいが、汝に期待するだけ無駄というところか」
「わかっているなら、いちいち口に出すな。それこそ無駄だろう」
そんなくだらない話をしながらも、オオマガツヒがイザナキについて話し出すのではないかと、ナオクスヒメは冷や冷やしていた。
もちろん、このようなことをいつまでも続けられないことはわかっている。
人間の寿命は五十年程度。
長く生きて八十年といったところだ。
ナオクスヒメの生きる長さを考えたらたいしたことのない時間だが、それでもヨモツを騙し続けるには、長すぎるほどの時間――。
それとも、頼通などどうでもいい存在だと早く割り切れれば、どんなに楽か。
そんな日が、いつか来るのだろうか。
「……汝はいつも楽しいことばかりでよいな。何かに悩むということもないのだろう」
ナオクスヒメは皮肉を込めて言った。
「どうだ、うらやましいだろう、と言いたいところだが、今はこの身体のせいでそうでもない」
「そういえば、汝も左近中将として働いておったな」
オオマガツヒともあろう禍の神が、内裏の警護に当たっているのだ。
改めて考えれば、これほど滑稽なことはない。
ナオクスヒメが笑うと、オオマガツヒもふっと笑った。
「まあ、だからこそ、お前の気持ちはわからないでもない。こんな邪魔な肉体があるせいで、人間と交わりを持たずには生きていかれない。だから、愛だの恋だのという煩わしいものにも縛られる」
オオマガツヒの言っていることは、ナオクスヒメにも充分理解できた。
頼通と出会う前は同じことを思っていたからだ。
しかし、一度愛することを覚えてしまった今は、それを完全に否定することはできなかった。
「俺はやはり自由がいい。もうこんな身体はうんざりだ」
「もともと汝が始めた遊戯だろう。今さら、何を言う」
「そう、飽いた玩具は早々に捨てるさ」
「そんなふうに考えられる汝が、少しうらやましい」
ナオクスヒメは未だイザナキを黄泉に送る決心がつかない思いに、膝を抱えて再びため息をついた。
束の間の沈黙の後、オオマガツヒが振り返る気配がした。
「……お前、まさか、まだ左大将と繋がっているのか?」
「汝の思惑通りに、いつも事が運ぶと思うのは大間違いぞ」
「せっかく俺が忠告してやったのに、無駄にしやがって」
オオマガツヒは不快もあらわに睨んでくる。
「残念だったな」
ナオクスヒメはふんと鼻で笑ったが、同時にその言葉の意味を改めて考えてしまった。
残念? 本当に残念な結果だったのか……?
オオマガツヒが別れろと言ったその日、頼通との関係を終わりにしていれば、このように悩む必要はなかったのかもしれない。
イザナキが頼通だと知る前に――。
ナオクスヒメは不意に嫌な予感にかられた。
こやつ、イザナキの存在をすでに知っていたのか……!?
だから、別れさせようとしたのか。
頼通の中にイザナキがいることに気づいた時、思い悩む必要がないように。
いや、と即座にそれは否定した。
オオマガツヒが他人のために何かをするということはありえない。
そこには自分に都合のいい目的があるはずだ。
それは何ぞ?
しかし、それを問いただすには、イザナキが見つかったことを話さなくてはならない。
今はその時ではない。
「どうした?」
オオマガツヒの声にはっと我に返り、ナオクスヒメは曖昧に微笑んでみせた。
「何でもない。汝が人に忠告するなど、珍しいこともあると思ってな」
ナオクスヒメは月が西の空に沈みかけているのを見て、逃げるように立ち上がった。
「さて、帰らねば」
ナオクスヒメはオオマガツヒに気取られぬよう、急いで身をひるがえした。




