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女神は月夜に降臨する ~孤独な女神の初めての恋は、世界の崩壊の始まりだったのか?~  作者: 糀野アオ@『落ち毒』発売中
六章

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第1話 言付け

 夕刻、日が暮れると同時に、五日月が西の空高くに輝き始めた。


 千鶴は月が昇るたびに、いつか来るだろうナオクスヒメに恐れを抱く。

 ひたすらに月が雲間に隠れることを、月がいち早く沈むことを祈る毎日が続いていた。


 ただただ恐怖におののく日々から、早く解放されたい。

 来るのなら早く来てくれと思うほどに、最近は追い込まれていた。


 それに加えて、日に日に衰弱していく隆姫《たかひめ》を見ていられなかった。

 食事も摂らず、眠ることすらしない。

 ふっくらと艶やかだった顔もやつれ果て、あの日から笑ったところを見ていない。


 隆姫はゆっくりと床《とこ》から起き上がると、虚ろな目で辺りを見回し、千鶴に視線を留めた。


「姫様……」


「千鶴、あの人はわたくしがもうじき死ぬということを知っているの……?」


「わたしには……」


 ナオクスヒメが頼通《よりみち》に話したかどうかはわからない。


 おそらく話してはいないだろう。


 彼女を怒らせたことを頼通が知っていたら、当然、咲姫《さきひめ》呪詛《じゅそ》のことも耳に入っているはず。


 彼はきっと隆姫と千鶴を許さないだろうし、それなりの態度が表れるに違いない。


 いずれにせよ、命永らえたとしても、隆姫に頼通との未来はもはやない。


「もうじき死ぬとわかっても、そばにいてくれない。今頃、どこの女のところにいることやら」


「……申し訳ありません」


 タマヨリの霊力《ちから》を使わずして、隆姫の問いに答えることはできなかった。


「ねえ、千鶴、わたくしたちはどうして、こんなことになってしまったの? ただ、あの人に帰ってきてもらいたかっただけなのに。ただ、愛しているだけなのに……」


「全てわたしのせいです。姫様のためを思ってしたことでしたのに……」


「あの人はわたくしが死んだ方がいいと思っているのだわ。ならば、わたくしは――」


 その時、車宿《くるまやどり》の方が騒がしくなって、頼通が帰ってきたことがすぐにわかった。


「姫様、頼通様はそのように薄情な方ではありませんわ。わたし、迎えに行ってまいります」


 千鶴は隆姫に微笑むと、足早に寝殿《しんでん》の方に向かった。


 庭の軒先から見える膨らみ始めた月はだいぶ西に傾いている。

 沈むまではあと二刻ほど。

 今宵もナオクスヒメは現れないのか。


 ……そうだわ。せっかく頼通様が帰られたのなら、お願いすればいいのだわ。


 せめて月の出ている間、頼通が隆姫のそばにいたら、隆姫をナオクスヒメから護ることができるかもしれない。


 頼通にとっていくら愛情の薄い正室であっても、目の前で妻が殺されるのを黙って見ているとは思えない。


 千鶴はそう思うと、一縷《いちる》の望みが見えたようで、迫りくる死さえも免れるような気がしてきた。


 頼通は寝殿の方に寄らず、直接北の対屋《たいのや》に向かってきたのか、渡殿《わたどの》でその姿を見つけた。


「お帰りなさいませ」


「姫は?」


「相変わらずでございます」


 頼通は立ち止まらず、さっさと歩いていく。


 千鶴は踵《きびす》を返して頼通を追いながら、その背に向かって話しかけた。


「それで、頼通様、お願いがあるのですが……」


「何だ?」


「姫様がとても心細い思いをされています。夜はできるだけ姫様のおそばに付いていて頂けると、ありがたいのですが……」


 頼通はぴたりと足を止めて、怪訝そうに千鶴を振り返る。


「なぜ、夜なんだ?」


「姫様は夜になると不安になられるようで……」


「お前たち、やはり美濃と何かあったのだな。何があった?」


 ナオクスヒメは頼通には何も話していない。

 その方が彼女にとっても好都合なのか。


 とはいえ、彼女に命を狙われていることを話したら、その原因まで話さなくてはならない。


 千鶴は良い言い訳をすぐに見つけられず、頼通の鋭い視線を逃れるように俯いて口ごもってしまった。


「……ああ、そういえば」


 頼通はふと思い出したように、目元を緩めた。


「彼女から言付《ことづ》けを頼まれていた」


「言付けでございますか……?」


「今度だけは許す、と。言えばわかると言っていたが、何のことだ?」


『今度だけは許す』


 その言葉の意味は――。


 千鶴の膝からは力が抜け、その場にへたり込んでいた。


「千鶴?」


「本当、に……? あの方がそうおっしゃったのですか?」


 気まで抜けて、涙があふれてくる。


 ナオクスヒメはもう隆姫に手をかけることはない。

 そして、自分もまた、隆姫のそばで生きられることが約束されたのだ。


「とにかく説明しろ。何があった?」


「……もう済んだことでございます。頼通様のお耳に入れて、煩《わずら》わせることではありません」


 これで隆姫の病も治るに違いない。


 この朗報を早く知らせねばと、千鶴は気を取り直して、涙を拭きながら立ち上がった。


「さあ、姫様がお待ちですわ。参りましょう」


 頼通はそんな千鶴を訝しげに見つめていたが、問いただすのを諦めたのか、黙って千鶴の後に続いた。


「姫様、頼通様がお見舞いに――」


 千鶴が嬉々として部屋に入った時、そこに隆姫が単衣姿《ひとえすがた》で枯れ木のように立っていた。


「姫様……?」


「あなたは、わたくしに死んでほしいのでしょう……?」


 隆姫は乱れた髪の隙間から上目遣いに頼通を見上げ、くすりと笑みを洩らした。


「何を言っている? 早く横になって休みなさい」


 隆姫はその言葉が聞こえていないかのように、覚束ない足取りで一歩一歩頼通の方に近づいていく。


「ならば、その前にわたくしを抱きしめて。そうしたら、安心して休めるわ」


「子供のようなことをおっしゃる方だ」


 頼通は苦笑しながらも、隆姫の方に腕を広げた。

 刹那、隆姫のだらりと垂れ下がった単衣の袖口から、きらりと光る懐剣《かいけん》の切っ先が千鶴の目をかすめた。


「いけません!」


 千鶴は真っ青になって叫ぶと、迷わず頼通の前に飛び出していた。


 同時に、隆姫が千鶴の前に身体を預けるように倒れ込んでくる。


 腹を突き上げる衝撃――。


 しかし、痛みを感じる余裕もなく、千鶴はただその場に膝を折った。


 全てがまるで夢の中のように、千鶴の霞んだ瞳に辺りの動く様がゆっくりと映る。


 しかし、何が起こったのかは頭の中ではっきりわかっていた。


「千鶴!」


 頼通の焦燥混じりの声が千鶴の耳に届く。


 ああ、まだやらなければならないことがある……。


 千鶴は力を振り絞って、自分の腹に突き刺さる懐剣を引き抜いた。


 激しい痛みが初めて全身を貫き、目からは涙が噴き出してくる。

 千鶴はかまわず歯を食いしばり、頼通の青ざめた顔を見上げた。


「……頼通様、これは、姫様がやったことではありません。わたしは、自害です……!」


 千鶴は震える唇を何とか押し広げ、途切れ途切れにそれだけ言うと、血に濡れて滑る手で懐剣の柄をぎゅっと握り締め、自らの首にまっすぐ突き立てた。


 これで姫様は殺される心配もなく、罪に問われることもない……。


 千鶴は遠のく意識の中でそんなことを思いながら、自然に笑みを浮かべていた。

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