第1話 言付け
夕刻、日が暮れると同時に、五日月が西の空高くに輝き始めた。
千鶴は月が昇るたびに、いつか来るだろうナオクスヒメに恐れを抱く。
ひたすらに月が雲間に隠れることを、月がいち早く沈むことを祈る毎日が続いていた。
ただただ恐怖におののく日々から、早く解放されたい。
来るのなら早く来てくれと思うほどに、最近は追い込まれていた。
それに加えて、日に日に衰弱していく隆姫を見ていられなかった。
食事も摂らず、眠ることすらしない。
ふっくらと艶やかだった顔もやつれ果て、あの日から笑ったところを見ていない。
隆姫はゆっくりと床から起き上がると、虚ろな目で辺りを見回し、千鶴に視線を留めた。
「姫様……」
「千鶴、あの人はわたくしがもうじき死ぬということを知っているの……?」
「わたしには……」
ナオクスヒメが頼通に話したかどうかはわからない。
おそらく話してはいないだろう。
彼女を怒らせたことを頼通が知っていたら、当然、咲姫呪詛のことも耳に入っているはず。
彼はきっと隆姫と千鶴を許さないだろうし、それなりの態度が表れるに違いない。
いずれにせよ、命永らえたとしても、隆姫に頼通との未来はもはやない。
「もうじき死ぬとわかっても、そばにいてくれない。今頃、どこの女のところにいることやら」
「……申し訳ありません」
タマヨリの霊力を使わずして、隆姫の問いに答えることはできなかった。
「ねえ、千鶴、わたくしたちはどうして、こんなことになってしまったの? ただ、あの人に帰ってきてもらいたかっただけなのに。ただ、愛しているだけなのに……」
「全てわたしのせいです。姫様のためを思ってしたことでしたのに……」
「あの人はわたくしが死んだ方がいいと思っているのだわ。ならば、わたくしは――」
その時、車宿の方が騒がしくなって、頼通が帰ってきたことがすぐにわかった。
「姫様、頼通様はそのように薄情な方ではありませんわ。わたし、迎えに行ってまいります」
千鶴は隆姫に微笑むと、足早に寝殿の方に向かった。
庭の軒先から見える膨らみ始めた月はだいぶ西に傾いている。
沈むまではあと二刻ほど。
今宵もナオクスヒメは現れないのか。
……そうだわ。せっかく頼通様が帰られたのなら、お願いすればいいのだわ。
せめて月の出ている間、頼通が隆姫のそばにいたら、隆姫をナオクスヒメから護ることができるかもしれない。
頼通にとっていくら愛情の薄い正室であっても、目の前で妻が殺されるのを黙って見ているとは思えない。
千鶴はそう思うと、一縷の望みが見えたようで、迫りくる死さえも免れるような気がしてきた。
頼通は寝殿の方に寄らず、直接北の対屋に向かってきたのか、渡殿でその姿を見つけた。
「お帰りなさいませ」
「姫は?」
「相変わらずでございます」
頼通は立ち止まらず、さっさと歩いていく。
千鶴は踵を返して頼通を追いながら、その背に向かって話しかけた。
「それで、頼通様、お願いがあるのですが……」
「何だ?」
「姫様がとても心細い思いをされています。夜はできるだけ姫様のおそばに付いていて頂けると、ありがたいのですが……」
頼通はぴたりと足を止めて、怪訝そうに千鶴を振り返る。
「なぜ、夜なんだ?」
「姫様は夜になると不安になられるようで……」
「お前たち、やはり美濃と何かあったのだな。何があった?」
ナオクスヒメは頼通には何も話していない。
その方が彼女にとっても好都合なのか。
とはいえ、彼女に命を狙われていることを話したら、その原因まで話さなくてはならない。
千鶴は良い言い訳をすぐに見つけられず、頼通の鋭い視線を逃れるように俯いて口ごもってしまった。
「……ああ、そういえば」
頼通はふと思い出したように、目元を緩めた。
「彼女から言付けを頼まれていた」
「言付けでございますか……?」
「今度だけは許す、と。言えばわかると言っていたが、何のことだ?」
『今度だけは許す』
その言葉の意味は――。
千鶴の膝からは力が抜け、その場にへたり込んでいた。
「千鶴?」
「本当、に……? あの方がそうおっしゃったのですか?」
気まで抜けて、涙があふれてくる。
ナオクスヒメはもう隆姫に手をかけることはない。
そして、自分もまた、隆姫のそばで生きられることが約束されたのだ。
「とにかく説明しろ。何があった?」
「……もう済んだことでございます。頼通様のお耳に入れて、煩わせることではありません」
これで隆姫の病も治るに違いない。
この朗報を早く知らせねばと、千鶴は気を取り直して、涙を拭きながら立ち上がった。
「さあ、姫様がお待ちですわ。参りましょう」
頼通はそんな千鶴を訝しげに見つめていたが、問いただすのを諦めたのか、黙って千鶴の後に続いた。
「姫様、頼通様がお見舞いに――」
千鶴が嬉々として部屋に入った時、そこに隆姫が単衣姿で枯れ木のように立っていた。
「姫様……?」
「あなたは、わたくしに死んでほしいのでしょう……?」
隆姫は乱れた髪の隙間から上目遣いに頼通を見上げ、くすりと笑みを洩らした。
「何を言っている? 早く横になって休みなさい」
隆姫はその言葉が聞こえていないかのように、覚束ない足取りで一歩一歩頼通の方に近づいていく。
「ならば、その前にわたくしを抱きしめて。そうしたら、安心して休めるわ」
「子供のようなことをおっしゃる方だ」
頼通は苦笑しながらも、隆姫の方に腕を広げた。
刹那、隆姫のだらりと垂れ下がった単衣の袖口から、きらりと光る懐剣の切っ先が千鶴の目をかすめた。
「いけません!」
千鶴は真っ青になって叫ぶと、迷わず頼通の前に飛び出していた。
同時に、隆姫が千鶴の前に身体を預けるように倒れ込んでくる。
腹を突き上げる衝撃――。
しかし、痛みを感じる余裕もなく、千鶴はただその場に膝を折った。
全てがまるで夢の中のように、千鶴の霞んだ瞳に辺りの動く様がゆっくりと映る。
しかし、何が起こったのかは頭の中ではっきりわかっていた。
「千鶴!」
頼通の焦燥混じりの声が千鶴の耳に届く。
ああ、まだやらなければならないことがある……。
千鶴は力を振り絞って、自分の腹に突き刺さる懐剣を引き抜いた。
激しい痛みが初めて全身を貫き、目からは涙が噴き出してくる。
千鶴はかまわず歯を食いしばり、頼通の青ざめた顔を見上げた。
「……頼通様、これは、姫様がやったことではありません。わたしは、自害です……!」
千鶴は震える唇を何とか押し広げ、途切れ途切れにそれだけ言うと、血に濡れて滑る手で懐剣の柄をぎゅっと握り締め、自らの首にまっすぐ突き立てた。
これで姫様は殺される心配もなく、罪に問われることもない……。
千鶴は遠のく意識の中でそんなことを思いながら、自然に笑みを浮かべていた。




