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女神は月夜に降臨する ~孤独な女神の初めての恋は、世界の崩壊の始まりだったのか?~  作者: 糀野アオ@『落ち毒』発売中
五章

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第7話 夜語り

 頼通《よりみち》が藤壺の簀子縁《すのこえん》を渡って美濃の局《つぼね》に向かっていると、聞き覚えのある彼女の香《こう》が漂ってきた。


 東廂《ひがしびさし》の御簾《みす》の際《きわ》に、一つだけ出《いだ》し衣《ぎぬ》が出ている。


「美濃?」


 声をかけると、しばしの沈黙の後、扇が御簾の下に差し出され、心持ち上げられた。


 長押《なげし》に寄りかかりながら座って御簾の中を覗くと、美濃は扇で口元を隠して、上目遣いに頼通をじっと見ていた。


「吾《あ》に失望したのだろう? いまさら、何用ぞ?」


 美濃は視線を留めたまま、ひんやりとする口調で言う。


「あ、ええと……。左近中将《さこんのちゅうじょう》にあなたには近づくな、などと言われて、癪《しゃく》に障って……」


 頼通が思いつくままに言葉を紡ぐと、美濃は軽く目を伏せて、小さく笑った。


「あやつの言うことを真に受けるでない。汝《なれ》をからかって遊んでいるだけぞ」


 その親しげに響いた言葉は、頼通の嫉妬をさらにかき立てるものだった。


 二人の間には割って入ることのできない、絆のようなものがあるらしい。


 おかげで頼通はつい皮肉を口にしてしまった。


「あなたは左近中将のことをよく知っているようだね」


「確かにあれのことはよく知っておる。あまり楽しい付き合いではないが。吾がこの世に生まれ出《い》でた頃からだから、もう千歳《ちとせ》になるか」


 そう言って、美濃は憂鬱そうに扇で口元を叩いている。


 頼通の方は異なことを聞いた気がして、眉根を寄せた。


「千歳……? 彼は千年も生きているというのか!?」


 そんな馬鹿な、と頼通は目をみはった。


 左近中将とは元服前からの知り合いで、美濃と違って彼はきちんと成長している。


 その疑問に答えるように、美濃は口を開いた。


「それ以上ぞ。仮の姿でこのようなところに出入りしているとは知らなかったが、あれはまぎれもなく禍《わざわい》を起こす神、オオマガツヒの神」


「……つまり、あなた同様、彼もまた神だと?」


「汝もあれにはなるべく関わらぬ方が身のためぞ」


 俄かに信じられず唖然としている頼通を残して、美濃はゆっくりと立ち上がった。


「どこに行く?」

「どこにも行かぬ」


 頼通が怪訝に思って美濃の姿を追っていると、彼女は奥から炭櫃《すびつ》を運んできた。


「今宵は雪。冷えるだろう」


 そう言って美濃は頼通の前に炭櫃を置き、火箸で軽く炭を掻いた。


「気遣いありがとう」


 これは長居をしてもいいということなのだろうか。


 美濃は相変わらず扇で口元を隠しているので、その表情が読み取れない。


「二人の姫は元気か?」


 美濃は御簾越しに雪降る庭を見やりながら、ぽつりと呟いた。


「咲姫《さきひめ》は五条の知り合いの邸に移った。ただ、隆姫《たかひめ》の方は……」


「どうした?」


「物《もの》の怪《け》憑(つ)きになってしまったようで。あなたなら、何かわかるか? 昨夜はそれも尋ねたくて、会いにきたんだ」


「そうだったのか」


 美濃は険しい顔で、何かを考え込んだように目を細めた。


「頼通、言付《ことづ》けを頼まれてくれぬだろうか」


 ややあって、美濃は言った。


「構わないが、誰に?」


「千鶴に。今度だけは許すと。そう言えば、おそらくわかる」


「わかった。確かにそう伝えておくが、物の怪の方は……?」


「心配はいらぬ。隆姫もじきに元に戻るだろう」


「それならよかったが」


 頼通が安堵の息を漏らすと、美濃は少しだけ目元を緩めて吐息を洩らした。


「頼通、隆姫をもっと大切にしてやれ。咲姫のことといい、女二宮《おんなにのみや》のことといい、かわいそうだ。吾のところに来るくらいなら、隆姫のそばにいてやる方がいい」


 美濃の言葉に頼通は少なからず唇が震えた。

 無理に笑おうとしても、顔が引きつってしまう。


「それは……あなたからの別れの言葉なのか?」


「そのつもりはないが、汝が昨夜のことで怒っているのならば、そう取っても構わぬ」


「あなたが左近中将のことを何とも思っていないと言うのならば、その言葉を信じる。だから、私から離れるなどということは、言わないでくれ」


 頼通は慌てて美濃の手を引き寄せ、両手で包み込んだ。


 美濃は抗うことはなかったが、考え深げに遠くを見つめたままだった。


「吾にとって、男と関係を持つことなど造作もない。そういった意味では、昨夜の汝の言葉は真実かもしれぬ」


 頼通は返す言葉も見つからず、ただ俯いて彼女の冷たい手を少しだけ強く握り締めた。


「汝がそういう性質《たち》の女を受け入れられぬというのならば、これ以上、吾のそばにいることは無意味ぞ。隆姫は何があっても、汝だけを必要としている。だからこそ、彼女を大切にする方がよいと言ったのだ」


 頼通は昨夜感じた怒りが何だったのかと思うほど、今はどうしたら目の前の女を失わずに済むかということで、頭がいっぱいだった。


 この手を放したら、もう二度と逢えなくなってしまう。


 そう確信できるからこそ、何か言葉を紡がなくてはならない。


「……あなたは私を愛しいと言ってくれた。あなたにとって、あの言葉はただの恋の駆け引きでしかなかったのか? それとも、すでに過去の話でしかないのか?」


 頼通は顔が上げられず、握り締めた美濃の手を見つめていた。

 自分の手が振り払われないことが、唯一の救いのように思えた。


 居心地の悪い沈黙が流れる中、美濃の手にかすかな力が入った。


「吾はこの生き方を変えることはできぬ。だから、終わりにしようと思った。吾にとって汝と過ごした時間は、永遠の中の一瞬でしかない。忘れるのはそう難くないと――」


 語尾は嗚咽《おえつ》でよく聞こえなかった。


 頼通が顔を上げると、美濃は袖で顔を隠してその身を小刻みに震わせていた。


 美濃が決定的な別れを語っていることを理解し、頼通もまた目が熱くなった。


「あなたを泣かせたくはなかった」


 頼通が小さく呟くと、美濃は大きくかぶりを振った。


「違う。汝の言葉が嬉しかったのだ。こんな吾でもよいと言うのなら、汝から離れたりなどせぬ」


 美濃はゆっくりと涙に濡れた顔を上げ、扇を下ろした。

 彼女の口元には笑みがこぼれ、瞳はやさしい光に染まっていた。


 美濃を引き寄せて抱きしめると、彼女のほっそりとした腕が自分の背に回り、ぱさりと扇が落ちる音が聞こえた。

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