第7話 夜語り
頼通が藤壺の簀子縁を渡って美濃の局に向かっていると、聞き覚えのある彼女の香が漂ってきた。
東廂の御簾の際に、一つだけ出し衣が出ている。
「美濃?」
声をかけると、しばしの沈黙の後、扇が御簾の下に差し出され、心持ち上げられた。
長押に寄りかかりながら座って御簾の中を覗くと、美濃は扇で口元を隠して、上目遣いに頼通をじっと見ていた。
「吾に失望したのだろう? いまさら、何用ぞ?」
美濃は視線を留めたまま、ひんやりとする口調で言う。
「あ、ええと……。左近中将にあなたには近づくな、などと言われて、癪に障って……」
頼通が思いつくままに言葉を紡ぐと、美濃は軽く目を伏せて、小さく笑った。
「あやつの言うことを真に受けるでない。汝をからかって遊んでいるだけぞ」
その親しげに響いた言葉は、頼通の嫉妬をさらにかき立てるものだった。
二人の間には割って入ることのできない、絆のようなものがあるらしい。
おかげで頼通はつい皮肉を口にしてしまった。
「あなたは左近中将のことをよく知っているようだね」
「確かにあれのことはよく知っておる。あまり楽しい付き合いではないが。吾がこの世に生まれ出でた頃からだから、もう千歳になるか」
そう言って、美濃は憂鬱そうに扇で口元を叩いている。
頼通の方は異なことを聞いた気がして、眉根を寄せた。
「千歳……? 彼は千年も生きているというのか!?」
そんな馬鹿な、と頼通は目をみはった。
左近中将とは元服前からの知り合いで、美濃と違って彼はきちんと成長している。
その疑問に答えるように、美濃は口を開いた。
「それ以上ぞ。仮の姿でこのようなところに出入りしているとは知らなかったが、あれはまぎれもなく禍を起こす神、オオマガツヒの神」
「……つまり、あなた同様、彼もまた神だと?」
「汝もあれにはなるべく関わらぬ方が身のためぞ」
俄かに信じられず唖然としている頼通を残して、美濃はゆっくりと立ち上がった。
「どこに行く?」
「どこにも行かぬ」
頼通が怪訝に思って美濃の姿を追っていると、彼女は奥から炭櫃を運んできた。
「今宵は雪。冷えるだろう」
そう言って美濃は頼通の前に炭櫃を置き、火箸で軽く炭を掻いた。
「気遣いありがとう」
これは長居をしてもいいということなのだろうか。
美濃は相変わらず扇で口元を隠しているので、その表情が読み取れない。
「二人の姫は元気か?」
美濃は御簾越しに雪降る庭を見やりながら、ぽつりと呟いた。
「咲姫は五条の知り合いの邸に移った。ただ、隆姫の方は……」
「どうした?」
「物の怪憑きになってしまったようで。あなたなら、何かわかるか? 昨夜はそれも尋ねたくて、会いにきたんだ」
「そうだったのか」
美濃は険しい顔で、何かを考え込んだように目を細めた。
「頼通、言付けを頼まれてくれぬだろうか」
ややあって、美濃は言った。
「構わないが、誰に?」
「千鶴に。今度だけは許すと。そう言えば、おそらくわかる」
「わかった。確かにそう伝えておくが、物の怪の方は……?」
「心配はいらぬ。隆姫もじきに元に戻るだろう」
「それならよかったが」
頼通が安堵の息を漏らすと、美濃は少しだけ目元を緩めて吐息を洩らした。
「頼通、隆姫をもっと大切にしてやれ。咲姫のことといい、女二宮のことといい、かわいそうだ。吾のところに来るくらいなら、隆姫のそばにいてやる方がいい」
美濃の言葉に頼通は少なからず唇が震えた。
無理に笑おうとしても、顔が引きつってしまう。
「それは……あなたからの別れの言葉なのか?」
「そのつもりはないが、汝が昨夜のことで怒っているのならば、そう取っても構わぬ」
「あなたが左近中将のことを何とも思っていないと言うのならば、その言葉を信じる。だから、私から離れるなどということは、言わないでくれ」
頼通は慌てて美濃の手を引き寄せ、両手で包み込んだ。
美濃は抗うことはなかったが、考え深げに遠くを見つめたままだった。
「吾にとって、男と関係を持つことなど造作もない。そういった意味では、昨夜の汝の言葉は真実かもしれぬ」
頼通は返す言葉も見つからず、ただ俯いて彼女の冷たい手を少しだけ強く握り締めた。
「汝がそういう性質の女を受け入れられぬというのならば、これ以上、吾のそばにいることは無意味ぞ。隆姫は何があっても、汝だけを必要としている。だからこそ、彼女を大切にする方がよいと言ったのだ」
頼通は昨夜感じた怒りが何だったのかと思うほど、今はどうしたら目の前の女を失わずに済むかということで、頭がいっぱいだった。
この手を放したら、もう二度と逢えなくなってしまう。
そう確信できるからこそ、何か言葉を紡がなくてはならない。
「……あなたは私を愛しいと言ってくれた。あなたにとって、あの言葉はただの恋の駆け引きでしかなかったのか? それとも、すでに過去の話でしかないのか?」
頼通は顔が上げられず、握り締めた美濃の手を見つめていた。
自分の手が振り払われないことが、唯一の救いのように思えた。
居心地の悪い沈黙が流れる中、美濃の手にかすかな力が入った。
「吾はこの生き方を変えることはできぬ。だから、終わりにしようと思った。吾にとって汝と過ごした時間は、永遠の中の一瞬でしかない。忘れるのはそう難くないと――」
語尾は嗚咽でよく聞こえなかった。
頼通が顔を上げると、美濃は袖で顔を隠してその身を小刻みに震わせていた。
美濃が決定的な別れを語っていることを理解し、頼通もまた目が熱くなった。
「あなたを泣かせたくはなかった」
頼通が小さく呟くと、美濃は大きくかぶりを振った。
「違う。汝の言葉が嬉しかったのだ。こんな吾でもよいと言うのなら、汝から離れたりなどせぬ」
美濃はゆっくりと涙に濡れた顔を上げ、扇を下ろした。
彼女の口元には笑みがこぼれ、瞳はやさしい光に染まっていた。
美濃を引き寄せて抱きしめると、彼女のほっそりとした腕が自分の背に回り、ぱさりと扇が落ちる音が聞こえた。




