第6話 悪夢
頼通は激しく風が吹きつけ、雨が痛いほどに打ちつける嵐の中に立っていた。
目の前の海は荒れ狂い、背丈以上もある高い波が押し寄せてくる。
いったい、ここは……!?
近江の湖とも、明石や播磨の内海とも違う。
一度も見たことはないが、話に聞く外海に違いない。
なぜ突然、このようなところにいるのか見当もつかない。
頼通は不意に自分の頬に流れる涙に気が付いた。
息ができないほど胸が苦しい。
自分の感情を支配しているのは、ただ深い悲しみのみ。
何がこれほど悲しいのか、よくわからない。
しかし、胸を突き上げるような激しい苦痛は、いまだかつて味わったことのないものだった。
空が稲光し、まもなく波音をもかき消す雷鳴が轟いた。
頼通は自分の中に焦燥を感じ、早くこの場から逃げなければならないと思った。
何からなのかはわからない。
ただ、ここにいてはいけないことだけは確かだった。
しかし、足を動かそうにもそこに根が生えたかのように砂地にめり込み、身体は見えない力で拘束されている。
恐ろしさに顔からは血の気が引き、冷たくなった唇が震えた。
――ようやく見つけた。
脳裏に直接届いた声は美濃のものだった。
それはとても嬉しそうに、うっとりとした響きを持っていた。
「美濃……?」
――ああ、吾が愛しき汝兄の命。これほどめでたき日は他にあったろうか。
「何を言っている!?」
くつくつと笑う彼女の声が、おぞましいほどに頼通を脅かす。
――ずいぶん待たされたが、疾く参られよ!
美濃の声は鋭いものに変わり、稲妻が頼通をめがけて走った。
同時に辺りは真昼のように一瞬明るくなる。
頼通の身体は右肩を貫く痛みと共に激しく揺さぶられ、悲鳴すら上げられないまま、ただ大きく口を開けてその場に崩れ落ちていた。
頼通が目を見開いた時、口はぽっかりと開き、呼吸が止まっていた。
しばらくして息をすることを思い出したが、身体は汗に濡れそぼり、荒い呼吸と共に吐き気さえ込み上げてくる。
何という夢だったのだ……!
夢とはいえ、確かに死の瞬間だと認識できた。
死に対する潜在的な恐ろしさに、身震いを止めることができない。
「左大将殿?」
突然声をかけられ、頼通が我に返って顔を上げると、左近中将が不思議そうな顔で自分を見下ろしていた。
なぜ、こんなところに……?
頼通が辺りをぐるりと見回してみると、そこは左近陣の中だった。
どうやら夕方の会議の後、うたた寝をしてしまったらしい。
部下である彼がここにいるのも当たり前だ。
「うなされていたようですが、悪い夢でも見ましたか?」
そう言いながら、左近中将は衣擦れの音一つさせず、優雅な仕草で円座に腰を下ろす。
「あ、いや……」
「うたた寝は風邪をひきますよ。雪も降ってまいりましたし」
「そうか……」
昨夜の美濃との一件で、左近中将に対して愛想よくすることができない。
しかも、このように取り乱したところを見られたのを、この上なく恥ずかしいと思う。
この三条大納言家の子息は官位も充分、容姿も申し分ない。
艶名を馳せているが、女を襲うような性質ではない。
だからこそ、美濃が無理やり迫られたとは思えないのだ。
頼通は額ににじむ汗を拭いながら、脇息にもたれかかった。
「昨夜は見苦しいところをお見せして、申し訳ありませんでした。まさか、貴殿があのようなところにおいでになるとは思ってもみませんでしたので」
左近中将は余裕たっぷりに笑みを浮かべ、口元にゆったりと扇をかざした。
「あなたと同じ人を取り合うのは、どうも分が悪いようだ」
「そんな取り合うなどと……。知っていれば、私も手を出すようなことはありませんでした。どうかお気を悪くなさらずに」
左近中将が愛想程度に頭を下げて見せるのが、小馬鹿にされているようで余計に腹が立つ。
しかし、官位ある者、いちいち感情を表に出すわけにはいかない。
「まるで彼女はあなたのものだと言いたげだね」
「さあ、彼女が何と言いますか」
「ただ」と言って、左近中将は頼通の方に身を乗り出してきた。
挑むようにその目を剣呑と光らせ、頼通の視線を釘付けにする。
「彼女にはこれ以上、近づかないでいただきたい」
その冷たく表情のない声に、頼通は完全に気迫負けした。
ただ目を丸くして絶句していると、左近中将は殺意とも取れる鋭い目元を急に緩め、吹き出して笑った。
「なんて顔をされているのですか? ただの戯れ言ですよ」
そう言われても、戯れに取ることはできなかった。
本気で殺されると思うくらいに、左近中将の目は嘘を言っていなかった。
それでも頼通は笑って見せ、立ち上がった。
「あなたがそのようなことを言う人だとは思っていなかった」
「おや、そうですか?」
左近中将はとぼけたように目を丸くする。
「私は少し出てくる。宿直の方は任せた」
「どうぞ、ごゆっくり」
頼通は振り返ることなく部屋を後にし、雪が降りしきる中、足早に庭を歩いた。
そして、一番初めにあった樹にたどり着くと、その幹に拳を思いきり叩き付けた。
なんて腹の立つ奴なんだ……!
俯いたまま荒く息を吐き、それから気を取り直して藤壺に向かった。




