第5話 もたらされた禍
オオマガツヒは言い終わるか終わらないかのうちに、ナオクスヒメの唇に彼のそれを覆い被せてきた。
冷たい接吻――。
接吻の一つや二つで今さら大騒ぎはしないが、頼通のそれと違ってあまり心地の良いものではなかった。
その時だった。
突然、局の戸が開いたのは。
そして、視線を向けた先に頼通が姿を現したのは――。
頼通は最初唖然とし、それから顔色を真っ青に変えると、戸を閉めて姿を消してしまった。
オオマガツヒが身体を起こしても、ナオクスヒメは横たわったまま、頭の中が真っ白になっていた。
「やはり接吻するなら人間の女の方がいいな。お前の唇は冷たすぎる。死人に口付けしている気分だ」
オオマガツヒはそう言って、喉を鳴らして笑っていた。
彼は頼通がここに近づいてくる気配を感じて、わざとやったのだ。
ナオクスヒメは袖で唇を強く拭うと、起き上がってオオマガツヒを激しく睨みつけた。
「それは、こちらとて同じぞ!」
ここでオオマガツヒを怒鳴っている前に、頼通の誤解を解く方が先だ。
ナオクスヒメは部屋を飛び出し、辺りを見回した。
足早に簀子縁を渡っていく頼通の姿を見つけ、ナオクスヒメは重い着物を引きずりながら懸命に走った。
「待て! 話を聞け!」
ようやく追いつき、頼通の腕を掴んで引き止めることはできた。
しかし、彼はいつにない形相で怒っていて、さすがのナオクスヒメも少し怯んでしまう。
「話など聞きたくない。あなたは見かけによらず、色々な男に手を出しているのだな。失望した」
頼通はナオクスヒメの腕を振り払って、さっさと歩いていく。
「違う。あやつは吾のことを何とも思っていやしない」
「何とも思っていない男があなたの局まで押しかけて、押し倒すというのか」
「そうやって人に禍をもたらして、楽しむような輩なのだ。あれのおかげで、今までどれだけ迷惑を被ってきたことか……!」
ナオクスヒメは必死の思いで駆け続け、頼通の背中に声をかけるが、彼は振り返ることなく言葉を拒絶していた。
「ずいぶん昔からの知り合いのようだね。私には入り込めない絆があるのだろう」
「吾を信じられぬと言うのか!?」
「あのようなところを見て、信じるも信じないもないだろう?」
今、こうして痴話喧嘩をしているのも、オオマガツヒは見て楽しんでいることだろう。
それを思うと、余計に悔しく腹立たしい。
ナオクスヒメは言葉の代わりに涙があふれてくるのを感じ、追いかけるのをやめた。
「……もう、勝手にすればよかろう」
ナオクスヒメは小さく呟いて涙を振り払うと、踵を返した。
「ああ、男の嫉妬は見苦しいな」
渡殿の柱に寄りかかっていたオオマガツヒが、口元を袖で隠しながら笑っている。
ナオクスヒメは黙ったままつかつかと歩み寄り、その頬を思いきり平手打ちした。
「誰のせいぞ!?」
ナオクスヒメが顔を真っ赤にして叫ぶと、オオマガツヒは涼しい顔で叩かれた頬をさすっていた。
「触らぬ神に祟りなし、とはこのことだな」
「笑えぬ戯れ言だな。もう一回、殴られたいか?」
ナオクスヒメが手を挙げて睨むと、オオマガツヒはなだめるように「まあまあ」と人の良さそうな笑顔を向けてきた。
「なぜ、そこまであの男にこだわる? 星の数ほど男と寝てきたお前が、その誰一人として興味を持つことなどなかったのに」
「汝に話したところで、わかるわけがない。人間など遊戯道具にしか思っておらぬのだろう?」
「まあ、それに関しては否定しないが。しかし、初めての恋にのぼせ上っているお前よりは、わかることもある」
オオマガツヒの見下すような物言いに、ナオクスヒメは余計に腹が立つばかりだ。
「吾が何をわかっておらぬと言う?」
「お前とあいつは上手くいかないってことさ」
「なにゆえ? 神と人間だからか? 国つ神たちが人間と結ばれた例はいくらでもある。それと何ら変わりはない」
「いや、お前の場合は違う」
「どこが違うと言うのだ?」
「イザナキを忘れたか」
その一言にナオクスヒメは一瞬、目眩を覚えた。
『見かけによらず、色々な男に手を出しているのだな』
頼通の言葉を思い出し、ナオクスヒメの身体からは力が抜けて、その場に座り込んでいた。
頼通が他の男に抱かれる女を厭うような男であるならば――。
イザナキを探し続ける限り、ナオクスヒメは頼通の意に沿うことはできない。
「いい機会だから、これで終わりにしておけ」
そう言い残して、オオマガツヒは去っていった。




