第2話 高天原の異変
高天原――そこは神々の集う天界。
今は中つ国と同じように三日月が輝く空の下、静かな闇が広がっている。
ナオクスヒメの前に広がる田園には、この時期すでに刈り取られていなければならない稲穂がそのまま残され、全てが地に倒れていた。
小道に生える野花も枯れ果て、その生気を失っている。
ここは本当に高天原か……?
ナオクスヒメが自信を持てないのは、初めて来た場所ということもあるが、それ以上に自分の肌によくなじんだ感覚がこの世界全体を取り巻いているからだった。
これは間違いなく、穢れぞ。
そもそもナオクスヒメはその身の穢れゆえ、清浄な高天原への出入りは禁じられていたはずだ。
立ち入れること自体、何かがおかしい。
「なにゆえ……?」
ナオクスヒメは神の気配を探し、辺りを見回した。
やはり、おかしい。
夜に動けない神はアマテラスのみのはず。
ツクヨミを始めとする八百万の神々の気配が、かけら一つ感じられないのはどういうことなのか。
毎日、朝日は昇り、月が満ち欠けするということは、二人の支配者の存在は疑うべくもない。
つい先日もオオワタツミはナオクスヒメの声に応じて霊力を貸してくれたところだ。
ナオクスヒメは生気のある者の気配を探りながら、荒れ果てた田畑を越え、枯れた草で覆われた丘の小道を歩いていった。
しばらく行くと、姿のよい山の麓に床の高い館がいくつも並ぶ開けた土地が見えてきた。
その古風な造りは千年ほど前――ナオクスヒメが生まれた頃、中つ国にも見られたものだった。
あれが神々の住まう神殿か?
ナオクスヒメはそこを目指して駆け出し、一番手前にあった館の階を上った。
「誰か? 誰か、おらぬか?」
板の扉を叩いてみたが、返事はない。
扉に手をかけると、すんなりと開いた。
そこはいくつもの居座機の並ぶ忌服屋だった。
確かに五柱の機織女たちはいた。
しかし、皆、機を織っている途中で眠ってしまったかのように、梭を手にしたまま居座機の上にかがみ込んでいる。
「死んでおる……」
ナオクスヒメはその魂の抜けた器たちを見回し、身体が震えてくるのを感じる。
じりじりと後ずさり、逃げるようにそこを飛び出していた。
「ツクヨミの命!」
ナオクスヒメは何度もその名を叫びながら、端から館を巡り歩いた。
道すがら倒れている神々の魂の抜け殻に、何度も遭遇した。
どの館の中も、神々が突然魂を抜かれて倒れたかのように、その脇には手にしていたであろう衣や高坏が転がっていた。
まさか、ツクヨミの命も……? 何が起こっている? いや、何が起こった?
ナオクスヒメは全ての館を回ったが、息吹のある者に出会うことはなかった。
天つ神たちの死――それに大きく関わるだろう、もう一つの場所は黄泉国だ。
ナオクスヒメは焦燥の思いでクラノオハバリを掴みとり、闇を引き裂いてその身を飛ばした。
ナオクスヒメが黄泉の神殿に転がり込むように入ると、そこにヨモツの姿はなかった。
いつも通り、壁の灯皿は火を放ち、ヨモツが腰掛けている倚子がぽつりと中央に置かれている。
この神殿が存在している時点で、ヨモツの霊力が失われていないことはわかるが、肝心の姿が見えない。
母上にも何か異変が……?
突然、がたっと扉の開く音に、ナオクスヒメはびくりと緊張しながら振り返った。
そこにはヨモツがなよやかに立っていた。
「まったく、勝手に人の神殿に入り込むとは呆れた娘よ。血相変えて、何ぞあったのか?」
揶揄するような口調で、ヨモツは艶然と笑う。
「母上……いらしたのですか」
ナオクスヒメは安堵と共に、自分の身体の強張りが解けるのを感じた。
「何用ぞ? 吾が背が見つかったのか?」
「いえ……。ただ、高天原に異変が。神々が皆、死んでいるのです」
ナオクスヒメがためらいがちに口を開くと、ヨモツは顔色一つ変えずに、やはり笑っていた。
「吾は高天原へは行けぬ。何があったかなど、どうやって知ると思う?」
「確かに。しかし、汝命は死を司る者。知らぬわけはないと――」
ナオクスヒメは怯むことなく言い紡いだが、ヨモツは領巾で口元を隠し、肩を揺らして笑った。
「神も魂になれば、只人と変わらぬ。いちいち誰が黄泉に来たかなど、確認しておらぬわ」
ヨモツの言うことはもっともで、ナオクスヒメはそれ以上何も言えずに口をつぐんだ。
「それにしても、汝が高天原へ行ったとは、珍しいこともあるものよ。父親が恋しくなったか?」
「違います。ただ、中つ国で気になることがあったので、問いたかっただけのことです」
ヨモツは腕を組んだかと思うと、凍りつかせるような眼差しをナオクスヒメに投げかけてきた。
「そのようなことより、疾く吾が背を探し出せ。必ず汝の近くにいるはず。見落とすでない」
ナオクスヒメはヨモツの勢いに気圧され、一歩後ずさった。
「……御意のままに」
ナオクスヒメはヨモツの視線から逃れるように踵を返し、中つ国に戻った。




