第1話 まとわりつく穢れ
ナオクスヒメは清涼殿の屋根の上に立ち、吹き差す風を身に受けながら、遥か遠くまで碁盤目状に広がるこの平安の都を見渡していた。
長岡京より遷都して二百余年、人間が汚し続けてきたこの都は、すでに神の霊力の及ばぬほどに穢れてしまった。
都としての寿命は、もうそこまできている。
遷都しなければ、この都は滅びに向かうのだろうな。
「ナオクスヒメの神――」
か細い女の声が風に舞って、ナオクスヒメの耳を震わせた。
ナオクスヒメはゆっくりと振り返り、それと対峙した。
「汝は――」
ぼんやりと透けて見える死霊は、今上の東宮時代に淑景舎の君と呼ばれて寵愛を受けていた原子。
二十歳そこそこで病を患って死んだ薄幸の美しい女だった。
「黄泉に行かなかったのか」
「主上のおそばにいて、お守りしたかったのです」
「吾に声をかけてきたということは、何か心配事でも?」
「ええ……主上の病のことで」
「残念ながら、あれの病は悪霊のせいではない。吾にはどうすることもできぬ」
「いいえ、そうではないのです。何か大きな力が……」
そう言って、原子は怯えたように身体を抱きしめ、顔を曇らせた。
「大きな力?」
「わたくしにはわかりません。ただ物の怪とも違う、何かがまとわりついて離れない……。このままだと、主上はお亡くなりになってしまいます」
「確かに、今上はもう長くはないと思っていたが……」
「ナオクスヒメの神、どうか、どうか、主上をお助けください……。あなたにしか、もう頼ることができない」
まとわりついて離れぬもの――穢れか?
思いつく限りではそれしかない。
しかし、ナオクスヒメは納得がいかなかった。
確かに今上のそばにはオオマガツヒという穢れの塊がいるが、アマテラスとツクヨミの加護のもとで死に値する穢れを、日嗣の皇子に与えられるはずがない。
だからこそ、オオマガツヒがこの中つ国で一番清浄でなければならない日嗣の皇子の住まい――ここ内裏に穢れを振りまいて出入りするのを許しているのではないのか。
穢れでなければ、大きな力とは何ぞ?
ナオクスヒメは首を傾げた。
「わかった。吾も調べてみよう」
「お願いします」
そう言って、原子は深く頭を下げると、下の方に舞い降りていった。
その姿を見送ってから、ナオクスヒメは空を振り仰ぎ、白く光る三日月を見上げた。
――ツクヨミの命。
ナオクスヒメは久しく話すことのなかった父親を呼ぶ。
――どうか返事を。
返事のないことが、ナオクスヒメの胸を次第に苦しくする。
ツクヨミにこの心の声が聞こえていないわけがない。
それにもかかわらず応えがないのは、応える気がないということだ。
この世に生を受けた時、ナオクスヒメは何もわからず、この中つ国で父親の名を呼び続けた。
その時、たった一度だけツクヨミの声を聞いたことがある。
そのよく透る低い声が俄かに思い出され、ナオクスヒメはぎゅっと目を瞑った。
『汝は穢い。生涯、吾に会おうなどと思うでない』
突き放したような冷たい響きに、ナオクスヒメは泣いた。
父親恋しさにツクヨミのいる高天原に飛ぼうとした。
しかし、ナオクスヒメは虚しくも弾き飛ばされ、地面に叩き付けられていた。
高天原にいる天つ神たちは、同じ神であるのに中つ国に降りて穢れた国つ神を蔑み、厭う。
たとえ親子であろうとも疎み、避け続ける。
それを知って以来、ナオクスヒメはツクヨミと言葉を交わそうとは思わなくなった。
だからといって、今はそのようなことを言っていられる状況ではない。
ナオクスヒメはうっすらと目を開き、自分の足元を見つめた。
――汝命が吾を疎んでいることは知っておる。ただ、汝命にとって大切な日嗣の皇子のことで、聞きたいことがあるだけぞ。
娘などと思われなくてもいい。
一柱の神として問いかけた。
それにもかかわらず、返事は待てども待てどもなかった。
「ツクヨミの命……!?」
ナオクスヒメは月を睨みつけると、クラノオハバリを両の手に掴み取った。
切っ先が小刻みに揺れる。
ナオクスヒメは絞るように柄を握り締め、歯を食いしばった。
そして、宙を引き裂いた。




