第6話 夢のひととき
四章最終話です。
頼通は高倉殿に着くと、隆姫の居室となっている北の対屋にまっすぐ向かった。
渡殿の途中まで来た時、迎えに出てきたと思われる千鶴に会った。
その化粧が剥げ落ち、泣きはらした赤い顔を見て、頼通は驚きを隠せず目を剥いていた。
「あの、このような時間に何か……」
千鶴はかすれた声で何かに怯えたように言った。
「何があった? 姫に何か?」
「いえ。姫様はすでにお休みになっております。御用でしたら、わたしが承りますので」
「何もないのならいいが。姫には申し訳ないのだが、少しの間、ある人を預かることになってね」
「どのような?」
「お前も知っていると思うが、六条の咲姫を。火事に遭って住むところを失ってしまったんだ。お前の方から、姫に上手く言ってくれないだろうか」
千鶴が真っ青になって、震え出すのは当然といえば当然で、予想に反しない反応だった。
「本当に申し訳ないと思っていると、姫に伝えてくれ」
話を聞いているのかいないのか、千鶴は目を虚ろにさまよわせ、うわ言のように何かを呟いている。
「千鶴? どうした?」
「……咲姫様が、生きている? なぜ、そのようなこと、あるはずが……」
「確かに彼女が助かったのは奇跡のようなものだな」
美濃に感謝しつつ、頼通が目を細めて庭を見やると、不意に倒れるように千鶴がそこに泣き崩れた。
「どうして……!? どうして、あの方は咲姫様に味方をするの!? どうして、隆姫様ではないの!? 同じ頼通様の妻であられるのに、なぜ、そのような贔屓を……!」
千鶴がこのように取り乱したところは見たことがなく、何かあったというのは察しがつく。
そして、美濃が何らかの関わりを持つということも。
ただ、こんな状態で問いただしても意味はないだろう。
話をするのなら、後日、落ち着いている時の方がいい。
それに、美濃から聞くこともできるかもしれない。
頼通はそう判断して、今は何も聞かなかった。
「……申し訳ありません。咲姫様の件、明朝には姫様にお伝えしておきますので」
千鶴はふらりと立ち上がって軽く頭を下げると、肩を落として北の対屋に戻っていく。
頼通はそんな彼女を見送ってから、踵を返して美濃の待つ車宿に引き返した。
「用事は済んだのか?」
頼通が車に乗ると、美濃が聞いてきた。
「千鶴が取り乱していた。彼女と何かあったのか?」
美濃は一瞬、口元を震わせ、それから微笑んだ。
「何か言っておったか?」
「いや……。ただ、咲姫と隆姫について、贔屓がどうとか」
「あれは本当に何もわかっておらぬ」
車が動き出して、ごとごとと不快な音が聞こえてくる。
そんな中、美濃は何かを考え込んでいるかのように半眼を閉じていた。
「美濃、あなたは何者なんだ? 人ではないと聞いたが、それ以上を知らない」
「そうか。とうに聞き知っていると思っておった。千鶴は何も語らなかったか」
「なぜ、千鶴が知っていて、私が知らない? 知るに値しないほど、私はあなたにとって、小さな存在なのか?」
嫉妬の意が込められていることに気が付いたのか、美濃はくすくす笑って目を開いた。
「吾が真名はナオクスヒメ。ツクヨミの命とヨモツ大神の娘ぞ。夜にさまよう悪霊を黄泉に送るのが吾が使命」
「神、なのか……?」
頼通が半信半疑で問うと、美濃ははっきりと頷いた。
「その……神というものは、山や神社に祀られているものではないのか? こんな風に人の姿で、しかも目の前にいるなど……」
どうにも信じられない、と頼通はかぶりを振った。
しかし、歳をとることもなく、身軽に夜空を駆け回る彼女を、それ以外のものと思うこともできなかった。
「確かに実体のないものは多い。神の持つ役割によって違うというだけのこと。吾は人の姿をしていなくてはならぬ理由があるから、このように生きておる」
美濃はそう言って少し淋しげに目を伏せて苦笑いをしている。
その表情は幾度となく、彼女の瞳の中に見えた暗い影と同じものだった。
人の姿で生きなければならないことが、彼女を苦しめているのか?
支えになりたいと思った。
苦しみから救ってやりたいと思った。
しかし、美濃が神だと知った今、人間などが簡単に立ち入ってはならないような気がした。
「私は畏れ多いことをしているのだろうか」
頼通がぽつりと呟くと、美濃は深いため息をついた。
「汝は吾が何者でもいいと言った。それは偽りだったか?」
「あなたを愛しく思う気持ちに変わりはない。ただ、許されないような気がして……」
「誰かの許しなどいらぬ。互いに愛しいと思い合う、それだけのことではないか」
「そう、それだけのこと……。なのに、なんだかこう、実感が持てないというのか、現つに思えないというのか」
「ならば、夢だと思えばよい。夢だと思えば、何ものも怖くはなかろう?」
頼通が腕を伸ばすと、それに引き寄せられるように、美濃は胸に身体を預けてきた。
確かにその存在を感じながら、頼通は目を閉じた。
「その通りだ。これが夢ならば、どんな無礼も許される。いつまでも覚めないでほしい夢だ」
「そうだな」
それ以上交わす言葉もなく、輪の回る小気味の良い音と先払いの声だけを一緒に聞いていた。
次話より五章が始まります。
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