第5話 夜道
首は預けておこう、か。
ナオクスヒメは襖の陰から、千鶴の泣きはらした顔を見て、ため息混じりに声なく笑った。
そして、踵を返してのんびりと外に出た瞬間、「ああっ」という呟きをもらしながらしゃがみ込んだ。
己の愚かさに腹立たしくも、時間を戻すことはできない。
月が雲居に隠れている間に沈んでいたのだ。
月がなければ、内裏まで歩いて帰らなければならない。
いったいどれだけの時間がかかるのか。
ナオクスヒメは辺りの人の気配を気にしながら、こそこそと邸を抜け出した。
「吾も一緒に連れ帰ってくれればいいものを……」
月を一時的に消したオオマガツヒはというと、この近くからはその気配を完全に消していた。
このような時間、闇夜に一人歩きほど怖いものはない。
只人同然の今、襲われでもしたら、はっきり言って神であっても命の危険はある。
何が『楽しみは後に取っておく』だ。
オオマガツヒの気配は高倉殿にいる間中、襖の向こうに感じられた。
千鶴を襲うのを見たかったのだろう。
邪魔をしたのは、次回に持ち越しができるというだけのこと。
あの残酷な男神のことだ。
わざわざ姿を現したのは、一度救われたことで千鶴たちに希望を持たせ、さらなる絶望に落としたいのだろう。
魂胆は見え見えだ。
「吾が死んだら、次はないのだぞ!」
怒りに我を忘れて、時間を気にしなかった自分が悪いのだが、それでも鬱憤のはけ口を誰かに向けずにはいられなかった。
ナオクスヒメがぶつぶつと恨み言を吐きながら土御門大路を進んでいくと、西洞院で牛車が勢いよく曲がってきた。
慌てて飛びのき、「危ないではないか!」と叫ぼうとしたが、それが檳椰毛車であることに気が付いて口を覆った。
高貴な人物が乗っている車に文句はつけられない。
牛飼童や随身たちにじろじろ見られる中、ナオクスヒメは道の端に寄って、車が通りすぎるのを待った。
「美濃?」
後ろの簾から顔を覗かせたのは頼通だった。
「こんなところで何をしているんだ?」
「内裏に帰るところで……。送っていただけると、ありがたいのですが」
「それはかまわないが……。とにかく乗って」
狭い車内は頼通の焚き染めたかぐわしい梅花香が漂っていた。
ナオクスヒメが向かい側に座る間中、頼通は心配そうな顔で見つめている。
「具合いでも悪いのか?」
「なにゆえ?」
「その……先ほどのように跳んでいけば、早いと思うのだが」
「月が隠れたので、身体が重くて飛び跳ねられぬ。歩くしかないのだ」
ナオクスヒメが苛々して言うと、頼通は吹き出して笑った。
「たとえ歩いていっても、その格好では内裏の門には入れないよ」
すっかりその現実を忘れていた。
内裏は普通の邸とは違うのだ。
ナオクスヒメは恥ずかしくなって俯いていた。
「汝に拾ってもらえて良かった。このままでは路頭に迷うところだった」
なおも笑っている頼通をよそに外を覗くと、内裏とは反対方向に進んでいる。
「いずこへ行く?」
「高倉殿へ。六条の邸が焼けてしまったから、当座、咲姫を預かることにしたんだ。その前に隆姫には一言断りを入れておこうと思って。内裏はその後行くから、心配しなくていい」
『高倉殿』という言葉に、ナオクスヒメの眉はぴくりと反応してしまう。
散々脅したい放題にやってきて、いまさらどの面を下げて戻れるものか。
「まさか、隆姫と吾が鉢合わせするようなことは……?」
「まずいことでも?」
「その……色々あってな。今は顔を合わせるわけにはいかぬ」
ナオクスヒメがぼそぼそ言うと、頼通はやさしく微笑んでその頬に手を伸ばしてきた。
「安心していい。このまま車宿の中で待っていれば大丈夫。それに、咲姫のことがあるのに、これ以上隆姫を刺激するわけにはいかないからね」
ナオクスヒメは自分の頬に触れる頼通の手に自分の手を重ね合わせ、その温かさに心まで癒されるような気がした。
幸せなひと時――。
直後、ナオクスヒメは急に背筋が寒くなったような気がした。
これは、もしかしたら失っていた感触だったのだ……。
千鶴のもとに乗り込んだ時、本気で彼女を苦しめるために、隆姫を殺そうと思っていた。
そのことに対し、迷いは全くなかった。
しかし今、こうして落ちついてみると、それがどれだけ恐ろしいことだったかを思い知らされる。
もしも、隆姫を殺していたら、頼通は自分を許さなかっただろう。
妻を殺した女を愛せるはずがない。
愛情などどこかに消え失せてしまうのが目に見えている。
殺さなくてよかった。
ナオクスヒメは安堵と共に、邪魔をしてくれたオオマガツヒに感謝していた。




