第5話 使命への迷い
夢のような一夜は日の出と共に果て、中宮の還啓に伴ない、皆、否応なく現つに引き戻された。
そうはいっても、藤壺の女房たちにとっては、心地よい疲れとだるさが漂う、緩慢な一日だったのだが。
そして、深夜を過ぎた今、誰しも各々の部屋に引き払っている。
ナオクスヒメは一人、藤壺の東廂に残り、外の篝火だけの薄明かりの中、御簾の向こうの庭を見やっていた。
時折、宿直の者が松明を掲げて歩いて行くだけの静かな夜だった。
この一日、頼通と過ごした昨夜のことを何度も思い出し、生きてきた中で一番満ち足りた時間を過ごした。
愛し愛される中で抱かれる幸せ、抗うことのできない見えない力で引き寄せられる歓び、何度求め合っても飽くことのない心地よさ――。
しかし、いつまでもそんな夢心地の中で過ごさせてはもらえなかった。
先ほど退出しようとした時に届けられた一通の文が、ナオクスヒメを冷たい現実の中に引き戻したのだ。
ナオクスヒメは手にしていた文に目を落とし、膝に頬杖をついた。
式部卿宮敦儀親王からの初めての文――。
『射干玉の闇の中にて君を見ぬ。夢まぼろしか、否と答へよ』
(訳: 暗闇の中であなたを見ました。夢なのかまぼろしなのか。違うと言ってください)
敦儀はイザナキの器の候補として、次に狙っていた男だ。
返歌をすれば、直ちに逢瀬となるだろう。
しかし、ナオクスヒメはその気になれず、読み返してはため息が出ていた。
「なんだ、辛気臭いな」
見ずともわかるオオマガツヒの声に、ナオクスヒメは懐に文をしまいながら顔を上げた。
「何用ぞ?」
「用がなければ、来てはいけないのか。長い付き合いだというのに、つれない奴だな」
直衣を優雅に着こなしたオオマガツヒはそんなことを言いながら、ナオクスヒメに一番近い長押に寄りかかって座った。
そして、扇で御簾をそっと寄せて、ナオクスヒメの顔を覗く。
「なるほど」
オオマガツヒは含み笑いをしてから、御簾を元に戻した。
「なんぞ?」
「千歳にして初めて恋をした女神の顔はどんなものかと思ってな」
「な、なな、ななな……」
ナオクスヒメは顔がただ赤くなるばかりで、『な』の次に向かって唇が動かせない。
「なにゆえ、汝がそのことを知っておる!? 覗いたのか!?」
思わず叫んだ声は、ナオクスヒメが思ったより大きく響いた。
「そんな趣味の悪いことをするか。今日、左大将の機嫌がことのほか良かったから、かまかけただけだ。図星だったか」
まんまと引っかかってしまい、ナオクスヒメは羞恥と情けなさのあまり、やはり言葉が出てこなかった。
「しかし、望月夜のお前の美しさに優るものはないな」
オオマガツヒがしたり顔で頷いているのを見て、ナオクスヒメはまともに相手をするのが馬鹿馬鹿しくなっていた。
「汝、吾をからかいに来たのか?」
「いや。色恋沙汰で忘れているのではないかと思ってな。忠告に来てやった」
「何をぞ?」
「イザナキはどうした」
ナオクスヒメの眉がぴくりと反応する。
オオマガツヒの言葉は、まるでヨモツの監視役だと言わんばかりに聞こえた。
「ヨモツの逆鱗に触れぬよう気を付けろ」
オオマガツヒが近くにいる以上、イザナキ探しをなおざりにすることはできない。
ナオクスヒメは唇を噛んで、敦儀の文が入っている懐を押さえた。
「……わかっておる」
オオマガツヒの冷ややかな眼差しは、ナオクスヒメの返事と共にほんの少し和らぐ。
そして、彼は半眼を閉じると、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「あの男のどこがそんなにいい?」
「吾が誰を好きになろうと、汝には関係なかろうが」
ナオクスヒメはむっとしてオオマガツヒを睨んだが、彼は気に留める様子もなく、くつくつと笑った。
「とはいえ、なかなかの逸材だ。あれの周りは珍しいくらいに、不穏な気配が漂っている」
「汝も気付いておったのか?」
「何度か霊玉が漂っているのを見たことがあったからな。よりにもよって、お前も七面倒くさい男を好きになったものだ」
「タマヨリまで近くにいると思っていなかったのだから仕方なかろう」
「例の如く殺るのか?」
「さあ、まだわからぬ。警告はした。だから、あれの出方次第だろうな。目に余るようならば殺る」
「久しぶりにお前のタマヨリ殺しが見られると思うと血が騒ぐ」
オオマガツヒは自分の身体を抱きしめ、喉を鳴らして笑う。
「タマヨリへの残酷で冷徹な仕打ち。死を渇望させるやり方で、その肉体を斬り刻み、引き裂く。お前は身が凍りつくほどの微笑みを浮かべて、いとも簡単にやり遂げるんだ」
「霊玉となった死霊たちの無念を思い知らせてやっているまでのこと。好んでやっていると思われるのは心外ぞ」
ナオクスヒメは鼻を鳴らして、顔を背けた。
「いや、お前の中に流れるヨモツの血がそうさせるのだろう。ヨモツは人を殺す時に至福を味わう。お前もまた然り」
「あまりうれしくないな。母上は一番愛しい男までも黄泉に引きずり込むために、喜んで殺そうとした。吾にはわからぬ」
「ヨモツの場合、もはや愛とは言わない。愛とは変わりやすいものだ。長い時の中で変貌し、その形を歪めていく。それが恨みに、憎しみに、憎悪にすら変わることもある」
「母上がもうイザナキを愛してないと言いたいのか?」
ナオクスヒメが半信半疑で問うと、オオマガツヒは堪えきれないといったように吹き出して笑った。
「お前は何もわかっていない。お前が左大将を愛するように、ヨモツもイザナキを愛していると思っているのか? そんな愛はヨモツがイザナミでなくなった時に、とうに終わっているんだよ」
「ならば、なにゆえ、母上はイザナキをいまだに探そうとしておる? 黄泉で再び一緒になりたいからだろう?」
「無知とは幸せなことだな」
オオマガツヒの含みだらけの言葉に、ナオクスヒメの頭は混乱し、考えることを放棄した。
「もう良い。母上にどのような理由があれ、吾はイザナキを探すのが使命ぞ。そのために母上がわざわざ生んだ娘なのだから」
「わかっているのなら、さっさとイザナキを見つけて、母親を喜ばせてやれ」
頼通の顔が一瞬頭を横切り、ナオクスヒメは悔しさに涙をにじませた。
「迷いは不用。さっさと次の男と寝て来い」
「簡単に言うな! ようやく気持ちを確かめ合えたところなのに、他の男に抱かれなければならぬ気持ちが、汝にわかるものか!」
いきり立つナオクスヒメをかわすように、オオマガツヒはひょいと肩をすくめた。
「四の五の言っている場合ではないと思うが? せっかくなら、俺が――」
「結構! 余計なことはするな。そのようなことをしたら、望月の夜に殺してやる」
「やはり、お前は美しいな」
ナオクスヒメはもはや話に付いていかれず、ふらりと柱に寄りかかると、オオマガツヒが去ってくれるのを待った。




