第2話 重なる宿世
宴の席では女房たちにも酒が振舞われ、ナオクスヒメも初めて口にした。
身体中の血に霊力がみなぎるように温かくなっていく。
神々が酒を好むのも道理だ。
皆、思い思いに酔い乱れ、気が付けば女房たちも散り散りになって、南廂は閑散としていた。
和泉もいつのまにかその姿を消している。
期待通りに権中納言に近づき、今頃どこかの部屋で夜語りでもしているのだろうか。
話し相手もいなくなり、庭の方を覗けば、いつのまにか頼通の姿も見えない。
月もちょうど出たことだし、散歩するのも悪くない。
そう思い立って、ナオクスヒメはこっそりと寝殿を抜け出し、ひと気のない庭に下りた。
袿の裾を抱え上げ、ぶらぶらとあてもなく歩き始める。
紅葉も終わり、木々はすでに冬支度に入っているため、貧相な枝を見せていた。
雪でも積もれば趣もあるのだろうが、今は一番わびしい季節なのかもしれない。
さすが二町もある大邸宅というと広い。
いつも屋根の上からばかり見ているので、いざ庭を歩いてみると迷う。
迷ったら、上から探せばよい。
酒のせいなのか、そんな大胆なことを考える自分に、ナオクスヒメはひとり笑ってしまった。
「やっと見つけた」
男の声にナオクスヒメは慌てて扇を顔に翳し、ゆっくりと振り返った。
月明かりに浮かび上がったのは教通の姿だった。
頼通ではない。
ナオクスヒメは思いのほか、自分が落胆していることに驚いた。
「その着物、着ていただけたのですね」
教通がにじり寄ってくるたびに、ナオクスヒメはじりじりと後ずさる。
「何もそう怖がらずとも」
人好きのする、しかも艶な微笑みを浮かべる教通は、頼通と顔の造作は似ていても、その醸し出す雰囲気が全く違う。
「怖がる?」
「文の返事がいただけないので、淋しい思いをしていたのですよ。今宵、こちらで逢ったのも何かの縁。夜語りなどいかがでしょう」
「そうですね。わたくしを捕まえられたなら、そうすることに致しましょう」
ナオクスヒメはふっと笑って身をひるがえすと、一気に駆け出した。
ちらりと振り返れば、けなげにも教通は追いかけてくる。
女の足だと思って、侮っているのだろうか。
もちろん、ナオクスヒメの方に捕まる気は毛頭ない。
ところが、東の対屋の角を曲がろうとした時、長袴の裾につまづいてしまった。
しまった……!
ぎゅっと目を閉じた瞬間、ふわりと抱きとめられ、その場で転ぶことはなかった。
「大丈夫か?」
「頼通……」
会いたいと思っていた姿を目の前に見つけ、ナオクスヒメは迷わずその胸に顔を埋めていた。
「兄上、それは私が見つけた蝶なのですよ。横取りは御遠慮願いたいですね」
教通の不機嫌そうな声が冷たい夜の空気を震わせる。
「この蝶は自ずから飛んできて、私のところに来たのだ。私のものだろう?」
「もうすぐ結婚するという方は、慎みある行動を取るべきではないですか?」
「それでこの話が流れて、お前の方へ行ったら、それは喜ばしいことではないか。父上に告げるなり何なり、私は構わないよ」
忌々しげな舌打ちを残して、教通の足音は遠ざかっていった。
ナオクスヒメは頼通の胸が小刻みに上下していることに気が付き、顔を上げてみると、彼は声を殺して笑っていた。
「どうした?」
「いや。あいつのあんな悔しそうな顔を見られるとは思ってもみなかったものだから」
「それより、汝、誰かと結婚するのか?」
ナオクスヒメの問いに、頼通は瞬時に顔を凍りつかせ、参ったというようにため息をもらした。
「父に勝手に決められてしまった。あの人にとって私は駒でしかないから、どうすることもできない……」
「それでは隆姫が……」
「あなたにはもう少し嫉妬してほしいんだが。結婚すると聞いても、平然としていられるのは少し淋しい」
頼通はそう言って笑ったが、切なそうな目をしていた。
「平然としてはおらぬ。吾は汝の命の方が大切ぞ。ずっとそばにいると約束しただろう?」
「そうだな――」
その時、ナオクスヒメは頼通の肩越しに、ゆらゆらと宙に浮かぶ青白い鬼火を一つ見つけた。
途端に腹の底から怒りが噴き上げてくる。
ナオクスヒメは右腕を伸ばし、クラノオハバリを掴み取った。
「離れておれ!」
頼通を突き飛ばすと、ナオクスヒメは一気にその鬼火を斬り捨てた。
それは儚く細かい塵に崩され、じきに闇の中に消えていった。
ナオクスヒメは目に涙をにじませ、鬼火の消えた虚空を睨みつけた。
「あのタマヨリ女が……!」
ナオクスヒメは苦々し思いで吐き捨てながら、剣を一振りして手の中から消した。
「何を、した……?」
頼通は何が起こったのか、皆目見当もつかないらしく、ただただ目を丸くしてナオクスヒメを見つめている。
「千鶴といった女、隆姫の女房か?」
「乳兄弟だが、それが何か?」
「思ったよりも早く、汝に危険が迫るかもしれぬ」
「その……物の怪のことか?」
ナオクスヒメは親指の爪を噛み、しばしの間、考えを巡らせた。
「物の怪だけなら話は早いが、もう一人厄介なのがいる。教通の言葉ではないが、しばらくの間、身を慎んだ方がいい」
「慎むとは、あなたにも逢えないということか?」
ナオクスヒメは小さく頷いて、ほっそりとした下弦の月を見上げた。
「せっかく心を通わすことができたというのに、なぜ、そんなことを言う? いつまで逢えない? いつになったら逢ってもいい? あなたはその間にいなくなってしまう」
頼通の切なる訴えに、ナオクスヒメは胸をつかれた。
人間の生きる時間はそれだけ短い。
永遠にも近い時を生きる自分とは、時間の感覚が違うのだ。
「安心しろ。月が出ている間は問題ない」
「月が出ている間?」
「月の光がないと、吾は無力なのだ。汝を助けることができぬ。だから、月のない間は極力、隆姫のそばにいろ。そして、千鶴を見張れ」
「なぜ、千鶴を?」
「あれはタマヨリの霊力を持っている。どうやら霊玉を使って汝を尾行させ、隆姫に報告しているらしい。今、斬ったのは一つだが、他にもいたら結婚のことを隆姫がすでに知っている可能性がある。そうなると、具平をも動くかもしれぬ」
「あなたは一日にどれくらいの時間、月が出ているのか知っているのか!?」
頼通は悔しさともどかしさをにじみ出しながら顔を背けた。
そんな彼を見て、ナオクスヒメは、まるで自分を見ているような気がした。
この世に存在する意味がよく似ている。
共に生まれつき背負った宿世、その強い力で否応なく押し流され、抗うこともできず、逃げることも叶わない。
そんな中で生きなければならない苦しみ。
それを一言、宿世という言葉で割り切ることもできないという葛藤――。
ナオクスヒメは束の間、頼通の横顔を静かに見つめていたが、やがて彼に寄り添い、額を胸に預けた。
「今宵はまだ大丈夫なのだが、吾と共に過ごさぬか?」
俯いたままナオクスヒメが問いかけると、頼通の身体ははっとしたように反応していた。
「あ、いや、無理にとは言って――」
ナオクスヒメは言葉の途中でさらうように腰を抱き寄せられ、振り仰ぐように口付けを受けていた。
目を閉じることすら忘れるくらいに心の臓は高鳴り、身体中に血が駆け巡っていた。




