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水のように静かに振り下ろされたその剣を、ただ受け止めた。瞬きをするでも、閉ざすでもなく。それで、覚悟を知った。
『本気なのね、蘇芳』
ハラリと何本かの髪の毛が不自然な短さになる。額と髪の毛の間という、皮膚に辛うじて当たらないところにある刃は今も揺るがない。
宗主の直系として生を受け、次期宗主の座を緋陽と二分して争っていた少年。自身の父も叔母も超えて、宗主たる祖父から最有力と掲げられた。そんな少年が後継者争いの座を降りると言い出したのは、まだ一か月前のことだった。
『己よりもすべてに於いて勝っている人間がいるのに、ただ直系というだけで受け継ぐなんていう恥知らずな真似は出来ないな』
最初は、なにを莫迦なことをと取り合いもしなかった。次第に本気なのだと分かってしまい、その身を翠のためにというのならば、この刃を大人しく受けるということだと。同じ意味なのだと、そう伝え、実際行動に移しても蘇芳はぶれなかった。
蘇芳は、決してその血に慢心などしなかった。翠と同じように日々を修行に明け暮れ、その身を汚れで纏うことも厭わなかった。
その上で、追い越せない存在があるということを静かに甘受できたのは、共生として育った翠がいたからだった。
『緋陽は、可哀想だと思うよ。俺だって、翠が共生でなかったら血筋に縋っていたかもしれない』
違う、とは言えないことを翠は申し訳なく思った。縋らざるを得ない血の重たさは、濃い二人とは違い傍系の傍系の更に傍系という薄い翠に、わかったような口がきけるようなことでないことは確かであったのだから。
遠い昔、暗躍し、いつの間にか迫害された。それでも滅することはなく、表舞台が明るければ明るいほどその死闘は苛烈を極めた。
知には知で。格には格で。そして、血には血。死には死を。
それが、常に暗躍を担ってきた一族の宿命。敵方に忍び入り、謀略と諜報に於いて国の頂点と対になる存在。
従うことに抵抗がなく、それなのに引っ張ることにも抵抗はなかった。ただ、誰かの期待に応えることが翠にとっての最優先だった。
*****
頭の中で、静かな雑音が鳴っている。ごろんと足を絡めるように寝返りを何度か打つと、音を拾っていただけの脳から、目を開くように指示が出る。
重たい瞼を開き、ゆっくりと二回瞬きをする。レースのカーテンの向こうが土砂降りなのが見えた。
「雨か……」
連続的かつ断続的なその音は、何処も変わらない。そのことに、思いの外オフィーリアの心は落ち着いた。
上掛けをざっくりと畳み、枕元の刻み加工の入った水差しを手に取る。寝起きの体には十分な力は入っておらず、水がたっぷりと入った水差しは重く感じた。同じように置いてあった、ただし此方は空っぽの木の器に水を注ぐ。普段なら聞こえるトポトポと柔らかい音は、雨音に飲み込まれていた。
体温より僅かに冷たいだけの器に唇をつけ、生温い水を流し込む。一口二口と飲み下すと、体中に行き渡るのがわかった。
水差しと器を元の位置に戻し、窓辺に寄る。レースのカーテンを掌分ずらすと、薄暗さがほんの少しだけ解消された。身支度も整えていないのに外から見えるところへ行くことはどうかと思いつつも、魔法学園の女子寮の敷地内に忍び込む愚か者がいるはずもないことを、オフィーリアはよく知っていた。
一度瞼をおろし、そして寝間着を脱ぐ。髪の毛は一つにまとめ、ワンピース型の制服を黙々と身につけた。まだ授業開始までは時間がある。それどころか、食堂すら開いていない早朝。それでも今の心境で動かないという選択肢はなく、着替え終わると以前まとめ買いをした保存食を持って部屋を出る。
思った以上に虐げられているアドルフの状況を思うと、悶々と行き場のない苛つきが胸を覆った。
否、虐げられているというのは正しくないどころか違う。ただ側妃の産んだ第一王子に相応しい態度が取られていない、取ることが出来ないだけだ。
(十分アウトだよなぁ)
その異常性を知りつつも、オフィーリアが動くことが間違っていることは確かだった。万が一も億が一も在り得ないが、オフィーリアが王位継承権を持つことを声高に宣言しても混乱が生まれるだけだ。翠玉の濃さで継承権が決まると云っても、オフィーリアの生母たるセラフィーナは正妃たる立場を捨てた。王も、国も、民も捨てたのだ。その娘が王位に就くことを良しとしない者は多いであろう。まずオフィーリアは、セラフィーナがそこまでして守った自分が、その意に反することは在り得ない。在ってはならない。
長い廊下を歩き、幾つかの回廊を曲がる。昨日とは違い、本校舎の広々とした中庭に足を踏み入れる。踝まである青草を踏み、スゥッと深く呼吸する。廊下からは足を出しても、張り出した屋根の下にいるため然程濡れない。雨音が耳を揺らし、草花の香りが鼻を擽る。
雨は、恵みそのものであった。内陸が広く続く大陸だが、ジンデル王国は僅かながら海岸部と小さな島を持つ。他の隣国の多くは内陸国であり、渇水地域は少ないと云えど水不足は常に意識の中にある。それもあって、ジンデル始め多くの国が、雨を天からの祝福と受け止めていた。
日本では歓迎されないことが多かったものの、翠も雨が好きだった。自分と雨音以外は視界すらあやふやになり、時間も立場もどうでもよくなる。知らず体から力が抜け、心に余裕が出来た。
伏せがちな瞳で、ぼんやりと雨にたたかれる緑を視界に入れる。重心が見えなくなるような真似は、それでも比較的安全な立場にいるから取れる。
意識はしていなかった。それでも視界に、白っぽい灰色の中にポツンと暗い青色が入った。縦長の其れは、一度瞬きをしてみれば当然ながら同校の女子生徒だった。コの字型の中庭に面し、オフィーリアと少女は同じ線上にいた。ただ、オフィーリアが寮の方から歩いてきたのに対し、目線の先にいる彼女は教室の方からやってきたのだろう。雨に包まれてすっかり気が抜けていて、すぐに視界に入る存在にも気づかなかった。
「あ、……おはようございます」
声を出してしまい、気付かなかったふりは出来ないと内心ため息を吐く。だが例え本当に気づいていなくても、この学園の多くはオフィーリアよりも高位にあるため、後で文句を言われることは確実だった。それならば、気付いてよかったというべきであろう。小物が騒いでいることを気にしなくとも。
「おはようございます。お近くに行ってもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
同一線上とは云え、小規模であれば戦闘系の模擬授業が出来るだけの広さを持つ一角。その端と端だが、オフィーリアの声は彼女に聞こえたし、彼女の声もオフィーリアに聞こえた。
【波伝】
反響によって、遠くの音をも拾い、伝える水魔法。明細であることに拘らなければ映像を伝えることも可能であり、水辺があれば属性魔術師には容易に扱える。術師の能力を問わないため、水属性以外の人間にとって雨の日は鬼門である。
知ってはいても実際に対人で使ったことがない魔法を見ることができ、オフィーリアは気分のいいままに足を動かしている。それは、目の前からしずしずと歩いてくる少女も同じだった。
腰まである、緩やかなウェーブの紫がかった赤髪。瞳は淡い茶色――それよりもしっくりとくるのは、赤みがかった金色――金紅石。肩も腰も細く、頼りない。だが、あくまでぶれない柔らかさを持った水魔法属性の少女。
セシリア・フラウリーノ=バローノ・カリ。入学式で、パルトロウ公爵公子イアンに次いで代表挨拶をした、カリ男爵令嬢。その触れなば落ちんと云った見た目とは裏腹に、水魔法に於いてはイアンと並ぶ評価を受けている。が、誰もまだ実際の魔法を見ていない。春の魔法展開会のみならず、多くの機会に病欠しているためその実力を疑われている少女だ。
そんな彼女が早朝から本棟にいたことにも驚きだが、平民のオフィーリアに対しても丁寧な態度を崩さないことに尚驚いた。ジンデル王国に於いて貴族としては最下位と云えど、平民とは違う。寧ろ、下手に成り上がったばかりの方が面倒なことは多い。それなのにセシリアは、己と同等の者に対する礼儀を崩さずに近寄ってきた。
動揺をこれ以上表に出さないように努めながら、一歩の間合いで向き合う。セシリアの足が止まったことを確認して、軽く腰を曲げる。
「初めまして、カリ嬢。高等部一年、フィア・ジェリドフと申します。大公陛下のご恩情を受け、隣国ブルィギンから留学させて頂いております」
胸元に手を置くのは、軍人の形だ。令嬢ならば膝を曲げ、抜刀の必要性を考えない礼を取るのが礼儀である。だが、此処はベッケンバウアー魔法学園。実情はともあれ、高等部生は全員が予備兵として見做される。軍隊式の礼を取っても無礼には当たらない。なにより、オフィーリアには此方の方が楽だった。
だからと云って、この後のことは想像していなかった。流れるような一礼を見せたオフィーリアが顔を上げると、セシリアは同じように胸元に手を当てて礼を取った。男爵令嬢が、軍隊式の礼を。
「ご丁寧にありがとうございます。同じく高等部一年、セシリア・フラウリーノ=バローノ・カリと申します。お会いできて光栄ですわ、ジェリドフ嬢」
儚げな外見と僅かにかみ合わないのは、その声だった。セシリアは鈴の鳴るような声を持ちそうなのに対し、掠れがちな低音だった。言っても勿論、女性にしては低いくらいだが、か細い外見にはそぐわない。
「どうぞ、フィアとお呼びください」
「それでは私も、セシリアと」
「……え、っと」
「お嫌?」
「そんなことは、在りません、が……」
ならば是非、と朗らかに微笑むセシリアを見て、失礼ながら笑ってしまった。先ほどから驚かされてばかりいることに、不思議と懐かしさを感じる。
(この方は、周りに平民が多くいる中でお育ちになられたのかな)
カリ男爵は領地は持たず、騎士として爵位を得た。それ以前は、貴族の庶子だが認知されることはなく平民の母と同じように育った。そのことを踏まえると、例えセシリアが生まれる前に爵位授与がなされていようとも、身分に大きな拘りはなかったのかもしれない。
雨音が少し弱まっている中で、二人は立ったままだった。石椅子はあるが、先ほどまでの横風で濡れてしまっている。とてもハンカチで追い付く量ではない。かと云って、一番適している風魔法属性はセシリアもフィアも持たない。
「セシリア様は」
「敬称はいらないわ」
「いえ、それは流石に」
「コイブサーリ子爵令嬢とご子息は呼び捨てなのに?」
痛いところをつかれた。元から貴族と関わる気はなく、リーラとリアムのことだって計算外もいいところなのだ。その上、天才双生児と親しくしている平民になんて誰も好意的に近寄らないと思っていた。だから人目があろうが構わずに接してことが、ここで仇になった。
言葉に詰まったのがわかったのか、セシリアは苦笑いをしている。
「そうね。私も一応は貴族令嬢ですからね。それでも、いつでもいいので呼び捨ててくれることを期待しています」
どうしてこんなにも自分と近しくなろうとしているのかを考えだすと、オフィーリアには答えが見えなかった。オフィーリアを通じてリーラとリアムに近寄ろうとした者は春先に叩き潰したし、セシリアはその実力を疑われつつもイアンと並ぶ評価を受けている。最低でも入学式までは。それならば、わざわざ他の有力者とお近づきになる際にオフィーリアを通す必要はない。リーラとリアムに直接接触しても、無下になど出来ないのだから。
セシリアがなにを考えているのか。相手の狙いが見えないままの対談は良しとは出来なかったが、口を閉ざすことは出来ない。
「フィアはいつもこんなに早いの? 私は雨だから起きてしまったのだけど」
「いえ、寧ろ朝には弱いです。私も同じですね。雨音が心地よくて起きてしまいました」
「あら、属性はなに?」
土です、と笑うと、予想通りセシリアは意外そうな表情をした。
魔法属性は、相性だ。火に愛される者は火を愛し、風を愛する者は風に愛される。それは人々の相性にも適応され、火属性と水属性は生理的嫌悪を抱くことは多い。なんともないことも、好意を抱くことも多いが。
ジンデルの人は、恵みの雨を愛する。それはあくまで小雨であり、一時とは云え先ほどのような窓をたたき割るような豪雨ではない。土属性は水属性との相性はいいが、それでも土砂降りを超えてしまった雨でも心地よく感じるのは水属性が殆どだ。
珍しいわね、と素直な言葉に笑みが深まる。地味だが、どの属性とも協調を取れるのは土属性の強みだ。
「なるほど。それならばフラウホーファーでもあまりお困りにならないわね。水と火には何方が入られるの?」
「火はミック・アハテーですが、水はまだ……」
そう、最低でもあと二人は必要なうちの一人は可能ならば水属性が望ましい。氷と雷属性を持つリーラとリアムの能力の補佐と安定を考えれば、それぞれ近しい属性たる水と火属性持ちがいるに越したことはない。だが半日後にはグループ編成を提出しなくてはならず、また、リーラの厳しい条件を通過できる者がまず少ない。その中から水属性などという贅沢は言っていられない。
解決策は、思いもしないところからやってきた。
「では、私を数えてくださいませんか」
にっこりと微笑んだセシリアは、文句なしの美少女だった。
学園とジンデル、そして近隣諸国含めた地図を作ろうとしましたが、己のセンスの無さに打ちひしがれただけで終わりました。
設定の地図は、手描きで丸と四角と文字しかありません。




