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(――違う)
すぅっと、オフィーリアの背中に冷たい汗が一筋通った。
イアンは、視界に入る前から異常があることには気づいていた。そして、オフィーリアがどのように三人を地に伏せたかも知っていた。その上で、わざわざ影を動かすまで気付かせなかったのだ。平和ボケしている貴族筆頭では、ありえない。
一瞬、ぐらりと視界が揺らいだ。だが、次の瞬間には背中に冷や汗は伝っているものの明晰な世界で、オフィーリアはイアンと向き合っていた。
人気のない中庭。倒れている制服を着た男三人。その一人を見下ろす女子生徒。
(……やばい。コレ、積んだ)
言い訳の効かないシチュエーションに、イアンを取り込む方法を必死に考える。誤魔化すことはおろか、強行突破すら選択肢にはなかった。あんな見事な気配の消し方をし、どのくらいでオフィーリアが気づくのかを計っていた人に対して、そんなことは考えもしなかった。
「あ、の」
「ジェリドフ嬢でお間違いないでしょうか」
まだ高めの、だけど落ち着いた声の響き。イシュメル本人が目の前でしゃべっているような錯覚に襲わる。骨格まで似ているのかと、オフィーリアは茫然としながらも頷いた。
「彼らは、貴女が?」
チラリとイアンの目線が送られた先には、襤褸雑巾のように地に伏せている侵入者三名だった。
どうすればいいのか、ぐるぐるとオフィーリアの頭の中では洪水を起こしかけている。
(なんなの……解っているくせにわざわざ訊くなんて)
予測は出来ても捕捉は出来ていないことをすっかり失念している彼女には、到底答えを返すことが出来ない。黙り込んだオフィーリアはふと息を吸う際に、イアンが随分と口を開いていないことに気付いた。
「あの……?」
戸惑いながらも声をかけると、イアンはハッと肩を揺らし、「失礼」と小さく呟く。揺らいでいる瞳の奥に、はっきりとは見えないものの確かな失望が見えたことに、どうしようもない切なさを感じる。
きっと、似すぎているから。ずっとオフィーリアを支えてきてくれた、イシュメルに似過ぎているから余計な探りを入れては負の感情に敏感になっているのだと。小さく苦笑しながら考えを落ち着かせると、思考はいつの間にかすっきりと風通りがよくなっていた。
「ここに伏せっている方々をお相手したのは私かとお尋ねでしょうか」
少し眦を垂らしているオフィーリアに、イアンは目を見開いたもののすぐに生真面目に頷いた。
「えぇ。鳩尾に胸部の正面と右側部。そして頸根……どれも一突きだ」
ヒクッと頬筋が吊りそうになる。伏せるようにとは言っても足と足を絡め、完全には胸と地面がキスをしていない侵入者の体は確かにはかることが出来る。だが、服の上からでも素人がわかるような倒れ方ではない。
「流石、パルトロウ公爵公子閣下ですね。仰る通りです」
「見事な腕前です」
「……恐縮ですわ」
探りを入れられているのかと構えたものの、なんの毒気もない賛辞にオフィーリアの肩から力は抜けた。探らない筈がないが、それを抜きにしてもイアンの言葉は軽かった。
「あの、お怒りではないのですか」
どうも掴めない言動の数々に、思わずオフィーリアの方から問いかける。イアンは訊かれた意味が掴めなかったようで、首を傾げた。
「ここに倒れているのは、我が校の制服を着た方々です。それを同校の生徒が倒したと申し上げたのですよ? 校内決闘は重大な規則違反です」
オフィーリアは不穏な空気と隠し持っている武器から敵と判断したが、イアンも同じように気づいたのかと不思議に思っていると、緩く否定された。
「いえ、彼らはここ数日、殿下を尾けていたので。時機を見て問い質そうと思っていたのですよ」
泳がせていた獲物を、正義ぶった小娘がしゃしゃり出てしまったということに気付き、オフィーリアの白い頬はカアァッと一気に赤く色づいた。
「もっ申し訳ございませんっ! 差し出がましい真似を……!!」
すぐに捕えなかったのは、それ相応の理由がある。糸を引いている人間を掴むか、そうでなくとも更なるボロを出すのを狙っていたのは明確だった。
気持ち重ための黒髪を振り乱しながらの謝罪に、公子は苦笑する。
「とんでもない。一国の王子が怪しげな者たちに狙われているというのに見て見ぬふりをされるより余程善いでしょう。それに、この程度の予定外は想定内です。お心を乱されるようなことはされていませんよ」
淑女がそのように取り乱すものではないと暗に言われ、据わりの悪さが全身を駆ける。
「いえ、私は大公陛下のご恩情でお邪魔させて頂いているだけなので」
ジェリドフ嬢と呼んだことから、目の前の少年がフィアのことを知っていることはわかった。隣国からの平民の留学生など、知らない者の方が少数であろうが。
淑やかで上品なだけでは、街では生きていけないことを目の前のお坊ちゃまは知らないだろう。それでも口にしてしまった言葉に、後悔するよりも先にイアンはその紫水晶を柔らかく細めた。
「真の淑女は、品格の高さです。保とうとしがみ付いているだけでは、ただの下賤でしょう」
複雑な心中で、それでも正面を見遣る。イアンはジッとオフィーリアを見つめていた。危うい瞳の輝きを、一瞬たりとも逃がすことなく。
その眼差しに、オフィーリアの揺らいでいた心が荒れ狂う。泣きたいほど穏やかで、笑いたいほどの衝動が胸をすく。理由さえわからずに。
どこか、覚えのある感覚にオフィーリアは必死で記憶を掘り起こす。それでも、しっくりくるものは思い出せない。ただ、イアンの瞳への既視感はわかった。似ているのは、イシュメルだけではなかったのだ。
蘇芳。赤子の頃からの仲であり、本来は翠が蘇芳に仕えるべくして馳せ参じた。共に生き、共に死ぬべき共生として。
禁色たる深蘇芳の名を許された者。真実、始まりから終わりまで翠と共にあった彼の瞳は、当然のごとく黒だった。イアンの紫水晶とは間違えようもない。
だが、その真っ直ぐ対象を見据える澄んだ眼差しは、郷愁に駆られるほど蘇芳と似ていた。
(そうか。だから私は入学式でもあんなに取り乱してしまったのね)
苦笑いしつつも納得する。蘇芳は翠にとって未だに胸を痛める存在だった。守りきることすら出来ず、自身の我が儘から死へと巻き込んでしまった、と。共生の言葉通りに。
『品高くあれ』
女と見間違えるような華奢な体躯から。そう発さられたのは、真っ直ぐな力強さだった。
『気位と気品は違う。何れ俺が跪くに、相応しい宗主となるべく』
そう蘇芳が言ったのは、今のオフィーリアと同じ歳だった。
『だから翠はそのままでいてくれ。翠がどうしようもなく道を違えたときは、俺が止めるから』
風を防がず、寒を遮らず。否応なしに熱を奪う道場。感覚などとうに消えた足先。しんしんと雪が降り積もる中。
次期宗主筆頭の座から降りる旨を宗主に伝え、蘇芳は翠に言ったのだ。
「……ドフ。……ジェリドフ嬢!」
盛大に鼓膜を揺るがす、お腹の底からの声にびくりとオフィーリアの肩が揺れた。軽く強張ってしまった身体に気付き、忌々しく思う。
「失礼致しました。お話の最中に」
「いえ。ただ声が届いていないようだったので、不安だっただけです」
内心はどうあれ、外的にはさらすことなくひたすら冷静なイアンを見て舌を巻く。確かに、内も弱味も見せずにいられることは名門公爵子息に相応しい。
心の中で感心していると、ざわりと風が揺れた。意識するよりも早く、魔力を凪ぎ、精神を研ぎ澄ます。
(風魔法――【音運】か)
情報伝達の手段として、格段の速さを誇る風魔法はそれでも使われることは少ない。術師の精度により、盗聴が容易いからである。だが、今、別棟の二階からイアンに向かっての音運は、オフィーリアの風魔法属性を以てしても片手間には盗めなかった。
視線を正面に戻すと、同じようにイアンも目だけ動かしていたがその視線をオフィーリアに戻した。
「ジェリドフ嬢、申し訳無いが他に用があるのです。明日にでも改めて時間を取って頂けますか」
「……なにを仰っているのですか」
「お時間をとってしまうことは申し訳ございません。ですが、急ぎの用事があると云っても此方もはいそうですか、では終われませんので」
「そうではありませんっ!」
言われたことが解らずに、オフィーリアは怪訝な表情を隠さずに聞き返した。対し、イアンは的外れな応えを返した。わかっているであろうに。
「この状況を理解していらっしゃいますか!? 雑魚とは云え、本業の三人を相手に尋問を始めていたのですよ。そんな人間が、殿下に近づいていたのですよ。ましてや他国からの留学生と、調べるのに自国の方ほど楽ではない、怪しまれて当然の人間が。そんな人間を捕えもせずに明日まで待てなど……! 国が揺らぐのは一瞬かつ一つの綻びであるにも関わらず」
放って置け、と。どうせ監視はつくのだから、無駄なエネルギーを使う必要はない、と。この場でとるべき行動はわかりきっていた。それでもオフィーリアは、この場を逃れることに息を吐き、明日へ備えることができなかった。
存在が揺るぎそうなほどに崩れ、それでも最後に足に力を入れる。対し、イアンは瞳の色を隠すように目を伏せた。
「ジェリドフ嬢の能力の高さはこの目で確認しました。あと五秒早く来ていれば、まさしくなぎ倒しているところを見ることが出来たのでしょうが」
単純な話ですよ、と目元が緩んだイアンは、やはり誰かに似ていた。
「私は第一王子殿下の側近です。そして、殿下には敵が少ない代わりに味方も少ない」
だから、オフィーリアへの尋問よりも優先することがあるのだと。
茫然としているオフィーリアに、お手本のような目礼をして立ち去ろうとしたイアンは片足を引いたところでピタッと固まった。口元を少し歪め、言うべきか言わざるべきか迷っているように見える。
「ジェリドフ嬢、ブルィギンには……」
「公国がなにか?」
口を開いたものの、詰まった言葉を促す。だが結局は、いや、なんでもない、と言ってその背を向けた。
何を訊こうとしていたのか考えてみても、あの前置きだけでは範囲が広すぎて絞れやしない。ましてや今のオフィーリアは、想定外も過ぎる状況に困惑しきっていた。
『まだ、力が足りない。今の翠と俺には。だから捨て置く』
蘇芳が時期宗主争いから降りてすぐ。愚かにも憧れが憎しみに変わった弟々子を打ち払ったとき。処分することすら面倒だと。そんな暇ではないと。そう言ったのも、蘇芳だった。
唐突に【翠】を思い出さずにいられない出来事の波に、一つの【まさか】が浮かぶ。
「……お、う」
口に出して、彼の名前を呼んだのはもう、遠い昔だった。




