8. Vessel
いつのまにそこにいたのか、足音にも気づかなかった。短く刈り込まれた白い髪、痩せた身体に纏った白衣。
その顔には見覚えがあった。少女に連れられてきた「先生」だ。
逃げなければ、と思うのに、足は床に縫いつけられたように動かない。
男は、私が手にしたファイルを見ても、咎めも驚きもしなかった。しかし、その落ち着きが、却って私を焦らせた。
「協力……?」
この場でどう行動することが正解か分からず、ただ相手の言葉を繰り返してしまった。
「いったい、何に……」
掠れながらも言葉を発することはできるようになっていたが、まだうまく続けてしゃべることができない。
「もちろん、私の研究にだ」
男は白衣のポケットに手を突っ込んだまま、軽く肩をすくめた。
研究、という一語が、消毒液の匂いや、鏡のない部屋や、毎日飲まされた薬と、ひとつに繋がっていく。
「あの子は——」
あの少女は何者なのか、あなたたちの目的は何なのか……。いくつもの疑問を声にしようとしても、やはりうまく言葉にできない。
喉が張りつきむせそうになる。
「あの子のことかね? 彼女は、私の優秀な理解者だよ」
声にならない私の疑問を感じ取った男は、そう答えると、室内に歩を進めてきた。
男の声も態度も、何事もない日常であるかのように淡々としている。
最初に見たときは、少女に従っているだけの男に思えた。そうではなく、この男こそが——。
「なぜ……私が、ここに」
男は机に近づくと、積んであるファイルのひとつに手を伸ばす。
走れば扉から飛び出せそうだが、まだ足に力が戻っていない。
「——人間の魂とはなんだと思うかね?」
「なんの話を……」
突然の問いかけに戸惑う私をよそに、男はさらに語り続けた。
ここには私と、目の前に立つ男しかいないはずなのに、まるで私以外の誰かと話しているようだ。
「魂とは、肉体とは別に存在する、非物質的な実体だ。生命や精神の、根源と言ってもいい。——そこには、その人間のすべてが包括されている」
淡々としていた声に、しだいに熱のようなものが滲みはじめる。
「すべてとは、その人間の性質や記憶、そして——愛情すらも」
男の声が、ひとりごとのように低くなる。
その隙に、じりじりと扉に近づこうとした、そのとき——。
ふいに男の目が私を捉えた。
「では、魂とは、どこに存在するのか」
男は言葉を切ると、痩せた指を一本、宙に立てた。
「——どこにも存在しない」
狂っている。
そうとしか思えない言動に、私はただ男の顔を見ていることしかできなかった。
魂とは何か、魂の所在。存在するのに、存在しない——。
「矛盾しているようだが、そうではない。魂は、魂のままでは存在し得ないからだ。魂はその『器』に宿って、はじめて、その性質を現す」
男はそこまで話すと、手にしていたファイルをどさりと机に放り出し、再び扉と私の間に立った。
思わず後ずさる私の足に、机の角がぶつかる。
器、という言葉を聞いた瞬間、さきほどのファイルの、似た顔の人々が脳裏をよぎった。
「そして——魂の相似は、その容貌に現れる」
男の立てていた指は、ゆっくりと私の手の中のファイルに向けられた。
「すなわち、容貌を手がかりにすれば、その魂にふさわしい器を、探し出すことができるということだよ」




