6. Prayer
私の決断は目を閉じて眠っているふりをすることだった。
部屋に入ってきた足音は、すぐにはこちらへ来ない。
微かな衣擦れ、硬いものが触れ合うような音、それから、水を扱うような気配。
吸飲みを元の位置に戻したか、先ほどの不安が蘇ってくる。
やがて、その気配がベッドの脇へと近づいてきた。
「……お兄様」
不思議な甘い香りとともに繰り返される、その言葉。
「先生は、私の望みを叶えようとしてくださっています」
額に触れる指先はひんやりと冷たい。
いつもと同じように丁寧な手つきからは、優しさが伝わってくるようだ。
「お兄様が還ってきてくださるなら、私、どんな犠牲も惜しくないのです。何を差し出しても、構わない」
少女は言葉を続けながら、その指をこめかみから頬へと滑らせていく。
「でも——これで最後にしよう、そう願っていました。今度こそ、と……」
頬に落ちた水滴は、少女の細い指先ですぐに拭い去られた。
「……でも」
少女は何度も言いかけては、その言葉を呑み込むように小さく吐息を吐く。
彼女がどんな表情をしているのか、目を開いて確かめたくなる。
「……本当に、お兄様のよう……」
その囁きは、最後まで言葉にならずに消えた。
それきり、少女は黙り込んだ。ただ、私の髪をなぞる指だけが、ゆっくりと、繰り返し動いている。慈しむような、あるいは、何かを惜しむような手つきで。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
小さなため息とともに、椅子から立ち上がる微かな音が聞こえた。
「先生はお出かけになって、お戻りになるまでしばらくかかるようです。おやすみなさい——お兄様」
遠ざかる足音と扉の開く気配。
十分に時間を経ったことを確認し、そっと目を開ける。
身体を起こし、手のひらを開いては握る動作を繰り返すと、先ほどより腕に力が戻ってきているのが分かった。
立ちあがろうとして、手に枕があたったことで、その下に隠したカプセルのことを思い出す。
気づかれぬよう、吐き出したカプセルを押し込んでおいたはずだった。
しかし、枕をずらしてみても、そこには、何もなかった。
「あのとき……」
思わず漏らした声はまだ掠れていたが、かろうじて言葉になっている。
少女はカプセルに気づいたのだろうか。
ここにない以上、彼女が持ち去ったとしか考えられないが、なぜ——。
今は考えても答えが出ない。まずは行動することだ。
部屋の扉をあけて廊下の様子を窺うが、先ほどと同じ、弱々しい光に照らされて静まり返っていた。
「先生」はしばらく戻ってこない。
先ほどの少女の言葉が反芻される。
私が眠っていると信じて呟かれた言葉なのか、それとも——。
廊下を進むと、先ほど写真立てがあった部屋の扉がうっすらと開いているのに気づいた。
この扉は確かに閉めたはずだ。なのに、なぜ。
先を急ぐべきと分かっていたが、おそるおそる扉の隙間から中を覗いてみると、部屋は先ほどと同じように無人だった。
ひとつ違うのは、伏せられた写真立ての横に、先ほどはなかったはずの何かが置かれていること。
そっと部屋に入り机に近づくと、それは古めかしい鍵だった。
「……」
私は鍵を手に取ると、横に置かれた写真立てに手を伸ばす。
——そこに写っていたのは私の顔だった。




