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空白の肖像  作者: 音鳴 凪


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5. Wake

 少女の言葉が、何度も浮かび上がってきては消えていく。


 お兄様が、また戻ってきてくれたのですもの——。


 私をお兄様と呼び、「また」戻ってきたという、それが何を意味するのか。

 考えようとするたびに、得体の知れない冷たさが背筋を這い上がってくる。


「…………」


 考え続けながら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 しかし、今までの不自然な微睡とは異なる、疲れを癒すための眠り。


 無意識に力を込めた指がかすかに動くのを感じて、私の意識はそちらに向けられた。


 もう一度力をこめると、わずかに動かすことしかできなかった指が、今はシーツをはっきりと掴むことができた。


 今度は両手を握り、開き、また握る。手首が回り、肘が曲がる。腕全体に、まだ頼りなくはあるけれど、確かな力が戻ってきている。


 ゆっくりと膝に力を込めれば、棒のようだった足も動かすことができた。


 両手で身体を支え、慎重に上体を起こした。


 とたんに視界が大きく揺れ、白い部屋がぐにゃりと傾いだ。耳の奥で脈打つ音が響く。

 強く目を閉じてめまいが引いていくのを待つと、私はベッドの縁へとそろそろと足を下ろした。


 冷たいものが、素足の裏に触れる。


 硬く、なめらかで、温度を持たないタイルの感触。


 膝が笑うように震え、一瞬、崩れ落ちそうになる。とっさにベッドの柵を掴んでこらえた。

 立っているというより、辛うじて倒れずにいる、という方が近かったが、ようやくベッドから離れることができた。


 白い壁、白い天井、白い棚。点滴のスタンドらしき細い影。

 改めて部屋を見渡すが、横たわりながら見た景色以上の情報は見つからない。


 私はまず、自分の身体を確認した。


 薄い寝衣に包まれた、痩せ細った身体。骨の浮いた胸元、細い手首、頼りない脚。けれど、その輪郭は、まぎれもなく女のものだった。


 見覚えのない少女に「お兄様」と呼ばれた違和感。

 やはり、私は女だ。

 依然として自分の名前や、ここに来るまでの記憶を手繰り寄せることはできていないが、少なくともその自認は間違いではなかった。


「……っ!」


 そっと声を出そうと試みるが、喉が詰まって咳き込みそうになる。

 近くにある白いワゴンの上に、水差しと吸飲みが置かれているのを見つけ、むせないように水を飲む。


「……あ、……あ」


 喉から出た囁き声に違和感は感じない。

 私自身の声だ。


「ふう……」


 大きく深呼吸をして息を整えると、扉へと向かい、外の気配を窺った。


「……」


 何の抵抗もなく滑らかに開いた扉の向こうには、白い廊下が伸びている。


 廊下に窓はなく、弱々しい蛍光灯の灯で照らされている。

 出てきた扉は廊下の突き当たりにあり、そのすぐ隣にひとつ、向かいにもうひとつ、同じような白い扉が並んでいた。


 廊下はその少し先で、右へと折れている。


「くっ……」


 まだ十分に力の入らない足を動かし、壁に手をつき、身体を支えながら、隣の部屋の扉にたどり着いた。


 部屋の中は空っぽだった。


 私のいた部屋とよく似た広さ、よく似た造り。けれどそこには、ベッドも棚も何もなく、ただ白い空間が、ぽっかりと口を開けているだけだった。


 その向かいの部屋には、机がひとつだけ置かれ、その上に何かがあった。

 近づいてみると、それは白い写真立てのようで、伏せられていて表が見えない。


 私が写真立てに手を伸ばそうとした、そのときだった。


 静寂の底に、微かな音が聞こえてくる。

 柔らかく、軽く、聞き慣れた、あの足音。


 私は震える足を必死に動かし、来た道を引き返した。

 元いた部屋に転がり込み、ベッドへと這い上がる。


 寝具は乱れていないか、さっき使った吸飲みは元の位置にもどしただろうか——。


 足音が部屋の前で止まり、やがて扉が開く気配を感じる。


 私は目を閉じようとしてハッとした。


 今私は、眠っているのが正解なのか、それとも目覚めていなければならないのか?


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