4. Whisper
ここはどこなのか、自分が何者なのか、この身体に何が起きているのか。
ようやく不明瞭な微睡から解放され、思考を続けることができた。
わずかでも手がかりになるものはないかと、見えるかぎりの白い壁を、天井を、何度も視線でなぞる。
けれど、白く塗り込められたこの部屋は、問いに答えるものを何ひとつ差し出してはくれない。
やがて、聞き慣れた柔らかい足音が近づいてきた。
とっさに瞼を閉じ、呼吸を整える。できるだけ深く、ゆっくりと。
彼女は何者なのか。
いや、今は考えることをやめるべきだ。思考を巡らせると無意識に呼吸が乱れるかもしれない。
扉が開く気配がして、甘い香りが鼻先に漂う。衣擦れの音とともに、足音はベッドの脇で止まった。
沈黙が続き、まるでここには誰もいないような錯覚に陥るが、閉じた瞼の上にふっと影が落ちる。
ほんの微かに聞こえる息遣いで、誰かが私の顔を上から見下ろしている気配を感じる。
本能的に目を開いて確認したくなるのを耐える。
気配が遠ざかると、今度は水の音がした。そして、布を絞るような、かすかな音。
温かく湿った布が、額に触れた。
こめかみから頬へと、ゆっくりと滑っていく。首筋を伝い、鎖骨のくぼみを超えて、腕へと下りていく。
一拭きごとに、丁寧に、慈しむように、私の身体を拭いていく。
「……お兄様がいなくなってから、どうやって過ごしていたと思いますか?」
突然発せられた少女の声に、息を呑む気配を漏らさなかったのは、奇跡といって良かった。
「私の前からすべての色がなくなった。お兄様がいない日々は、無味乾燥で、ただただ目の前の時間が過ぎていくばかりでした……」
ドキリと跳ねた鼓動が悟られないか心配だったが、少女は何事もなかったかのように言葉を続けた。
その声は、昼間私に語りかけるときの澄んだ響きと、少しだけ違って聞こえた。自分自身にこぼすような、低く、ひそやかな声。
「でも、もういいのです。こうしてお兄様が、また戻ってきてくれたのですもの」
身体を拭いていた手が止まり、わずかに震えが伝わってくる。
私の腕にポツリと垂れた水滴は、涙だろうか。
身体が横向きに倒され、背中に温かな布の感触が伝わってくる。
背中をひと通り拭き終わり、着衣が戻されると、頭の下に手が差し入れられた。
もしかして、枕を直しているのだろうか——。
枕の下には吐き出したカプセルが押し込んである。もし見つかれば、カプセルを飲んでいないことがばれてしまう。
一瞬、少女の手が止まったように感じて、乱れそうになる呼吸を整えようとするが、今度はわずかに身じろぎしてしまった。
「不便でしょうけど、もうすぐ楽になりますからね。先生もそうおっしゃっていました。だから、それまで、もう少しだけ我慢してください」
しかし、少女は変わらぬ口調でそういうと、私の身体を再び元の姿勢に戻した。
背中がシーツに沈む。
「おやすみなさい、お兄様。また来ます」
少女の手が、最後にもう一度、髪を整えるように額に触れる。
足音が遠ざかり、扉の閉じる気配がするが、しばらくの間そのままの姿勢を保ち続けた。
脳裏には、先ほど少女が言った言葉が繰り返される。
『——お兄様が、また戻ってきてくれたのですもの』
また戻ってきたとは、どういうことだろうか。
いったい私は何者なのだ。




