表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白の肖像  作者: 音鳴 凪


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/14

3. Erase

 意識が浮かび上がってきたとき、最初に視界を満たしたのは、前回と変わらない白い天井だった。


 眠っていたのか、気を失っていたのか、その境目もわからない。ただ、自分がまた目を覚ましたのだということだけが、ぼんやりと理解された。


 やがて、聞き慣れた柔らかい足音が、ゆっくりと近づいてくる。


「ご気分はいかがですか、お兄様」


 澄んだ声とともに、少女の顔が視界に現れた。今日も、と思いかけて、それが今日なのかどうかさえ確かではないことに気づく。


「よく眠れていましたね」


 少女は私の額に触れ、静かに髪をなぞる。その手つきからは、優しさと丁寧さが伝わってきた。

 迷いも疑いもなく、私を「お兄様」として扱う仕草が、今日も繰り返される。


 言葉を発しようと、喉に力を込めるが、漏れるのは空気の音だけだった。


 ここはどこなのか。あなたは誰なのか。なぜ自分は動けないのか。


 そして——私は、誰なのか。


 少女が「お兄様」と呼ぶたびに、その呼び名が私の上に降り積もっていく。

 だが私には、自分の名前があるはずだった。お兄様ではない、別の名前が。


 それを手繰り寄せようと必死に記憶を辿る。

 両親が呼んだ名。誰かが呼んだ名。自分が自分であることを示す、たったひとつの音の連なり。


 しかし、白い霧の向こうに手を伸ばすたびに、それはするりと逃げていく。

 確かにそこにあるはずの()()は、指が触れる寸前で溶けて消えてしまう。


 考え続けなければいけない。なのに、あの微睡がまた忍び寄ってくる。

 思考が再び白く滲んでいく。いやだ、と思う間もなく、意識は柔らかい泥の中に沈んでいった。



 いつものように意識が浮かび上がる。


 この循環から抜け出さなければならない。そのとき最初に考えたのはそのことだった。

 やがて訪れる微睡に抗い、考え続け、答えを見つけ出す。


「お加減はいかがですか、お兄様」


 私が目覚めると、待っていたかのように少女が訪れる。


 私を『お兄様』と呼び、他愛のない話をする。

 時折顔を覗き込んでは、その口元に満足そうな笑みを浮かべる。


「今日の分のお薬をお飲みください」


 いつものように口にカプセルが入れられ、吸飲みから生ぬるい水が注ぎ込まれた。


 少女はいつも、しばらくの間私の顔を見ている。そう思っていたが、それは間違っていた。


 見ていたのは顔ではなく、喉の動き。


 ゴクリ。


 私が薬を確かに飲み込んだことを見ているのだ。


「先生が、そろそろ身体を動かせるようになるかもとおっしゃっていました」


 目を閉じた私にかけるその声は、いつになく温度を感じた。


 扉が閉じる気配がしてから、たっぷりと百を数え、そして私は口から薬を吐き出した。


 さらにしばらく様子を見たが、微睡が訪れることはなかった。

 いつもなら、とうに意識を攫っていったはずの白い靄が、今日は来ない。


 思考は途切れず、輪郭を保ったまま、私の中に留まり続けている。こんなにも長く、自分の頭がはっきりしているのは、ここで目覚めて以来、初めてのことだった。


 まず試したのは、身体の動きを確かめることだった。


 右手の人差し指に意識を集中させる。指先がほんのわずか動き、シーツをひっかく感触が伝わってくる。


 しかし、手首から上はまだ動かない。

 それでも、最初に目覚めたときの、何ひとつ動かなかったあの感覚とは、明らかに違っていた。


 手と同じように、足の指もわずかに動いた。身体の動きが、少しずつ戻ってきている。


 首はまだ持ち上がらなかったが、かろうじて左右に動かすことができた。自分の身体を見下ろすことはできないが、吐き出した薬を顎で枕の下に押し込んだ。


 だが、いくら時間をかけても、やはり自分の名前を思い出すことはできなかった。


 私の名前は、いまだ白い霧の向こうに沈み込んでいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ