3. Erase
意識が浮かび上がってきたとき、最初に視界を満たしたのは、前回と変わらない白い天井だった。
眠っていたのか、気を失っていたのか、その境目もわからない。ただ、自分がまた目を覚ましたのだということだけが、ぼんやりと理解された。
やがて、聞き慣れた柔らかい足音が、ゆっくりと近づいてくる。
「ご気分はいかがですか、お兄様」
澄んだ声とともに、少女の顔が視界に現れた。今日も、と思いかけて、それが今日なのかどうかさえ確かではないことに気づく。
「よく眠れていましたね」
少女は私の額に触れ、静かに髪をなぞる。その手つきからは、優しさと丁寧さが伝わってきた。
迷いも疑いもなく、私を「お兄様」として扱う仕草が、今日も繰り返される。
言葉を発しようと、喉に力を込めるが、漏れるのは空気の音だけだった。
ここはどこなのか。あなたは誰なのか。なぜ自分は動けないのか。
そして——私は、誰なのか。
少女が「お兄様」と呼ぶたびに、その呼び名が私の上に降り積もっていく。
だが私には、自分の名前があるはずだった。お兄様ではない、別の名前が。
それを手繰り寄せようと必死に記憶を辿る。
両親が呼んだ名。誰かが呼んだ名。自分が自分であることを示す、たったひとつの音の連なり。
しかし、白い霧の向こうに手を伸ばすたびに、それはするりと逃げていく。
確かにそこにあるはずのそれは、指が触れる寸前で溶けて消えてしまう。
考え続けなければいけない。なのに、あの微睡がまた忍び寄ってくる。
思考が再び白く滲んでいく。いやだ、と思う間もなく、意識は柔らかい泥の中に沈んでいった。
*
いつものように意識が浮かび上がる。
この循環から抜け出さなければならない。そのとき最初に考えたのはそのことだった。
やがて訪れる微睡に抗い、考え続け、答えを見つけ出す。
「お加減はいかがですか、お兄様」
私が目覚めると、待っていたかのように少女が訪れる。
私を『お兄様』と呼び、他愛のない話をする。
時折顔を覗き込んでは、その口元に満足そうな笑みを浮かべる。
「今日の分のお薬をお飲みください」
いつものように口にカプセルが入れられ、吸飲みから生ぬるい水が注ぎ込まれた。
少女はいつも、しばらくの間私の顔を見ている。そう思っていたが、それは間違っていた。
見ていたのは顔ではなく、喉の動き。
ゴクリ。
私が薬を確かに飲み込んだことを見ているのだ。
「先生が、そろそろ身体を動かせるようになるかもとおっしゃっていました」
目を閉じた私にかけるその声は、いつになく温度を感じた。
扉が閉じる気配がしてから、たっぷりと百を数え、そして私は口から薬を吐き出した。
さらにしばらく様子を見たが、微睡が訪れることはなかった。
いつもなら、とうに意識を攫っていったはずの白い靄が、今日は来ない。
思考は途切れず、輪郭を保ったまま、私の中に留まり続けている。こんなにも長く、自分の頭がはっきりしているのは、ここで目覚めて以来、初めてのことだった。
まず試したのは、身体の動きを確かめることだった。
右手の人差し指に意識を集中させる。指先がほんのわずか動き、シーツをひっかく感触が伝わってくる。
しかし、手首から上はまだ動かない。
それでも、最初に目覚めたときの、何ひとつ動かなかったあの感覚とは、明らかに違っていた。
手と同じように、足の指もわずかに動いた。身体の動きが、少しずつ戻ってきている。
首はまだ持ち上がらなかったが、かろうじて左右に動かすことができた。自分の身体を見下ろすことはできないが、吐き出した薬を顎で枕の下に押し込んだ。
だが、いくら時間をかけても、やはり自分の名前を思い出すことはできなかった。
私の名前は、いまだ白い霧の向こうに沈み込んでいる。




