2. Drowse
白い天井を見上げたまま、私はただ呼吸を続けていた。
動かない身体の中で、意識だけが奇妙に冴えていく。先ほどまで自分を包んでいた靄のようなものが少しずつ晴れて、輪郭のはっきりした思考が戻りつつあった。
ここはどこなのか。私は誰なのか。なぜ動けないのか。
問いはいくつも浮かぶのに、その答えはどれひとつとして手の中になかった。記憶を探ろうとしても、白い霧の向こうに何かがあるのはわかるのに、それを掴もうとすると指の隙間をすり抜けていく。
しかし、訪れる微睡に侵食され、深い継続した思考が中断される。
やがて再び意識が明瞭になると、眼球しか動かすことができなかった身体は、首が少し動くようになってきていた。
白い壁、白い天井、白いカーテン。角の丸い白い棚。さらに、ベッドの横には点滴のスタンドらしき細い影も見えた。
すべてが白を基調にして整えられた、清潔で、しかしどこか作りものめいた空間。
——お兄様
少女は私の顔を見て「お兄様」と呼んだ。
しかし、私は女性であるはずだ。
まだぎこちない首を動かし、部屋の中にあるものを探すが、見える範囲にそれはなかった。
病室であれ何であれ、人が過ごす部屋には必ずありそうなもの。
しかし、この部屋に『鏡』は見当たらなかった。
壁際に見える洗面台の上、棚の扉、壁。いくら視線を巡らせても、自分の姿を映すものはどこにもなかった。
部屋の窓は分厚いカーテンで覆われ、ガラスに像を結ぶ余地もない。
自分の姿を映す術を考えようとするが、その思考もまた、白く滲んで途切れていく。
気づけばあの柔らかい足音が聴こえてきた。
しかし、今度は違う足音が重なっている。軽く小さな少女の足音と、それより重く、ゆっくりとした足音。
扉が開く気配に続いて、視界の端に、白衣の裾が見えた。
先ほどの少女が覗き込み、私の目が覚めていることを確認すると、微笑みとともに頷く。
すると、少女と入れ替わるように、もう一人の人物が枕元に立った。
短く刈り込まれた髪はほとんど白く、白衣に包まれた身体は痩せて見える。初老か、あるいはそれ以上か、見上げる角度では年齢の見当がつかなかった。
「先生。お兄様がようやく目を覚まされて……ちゃんと私のことも見てくださってます」
男は少女の声に無言で頷くと、私の瞼を指で押し開き、光を当てた。口の中を検め、手首を取る。
ここで目覚めてから、初めて自分の身体の一部を見ることができた。
痩せ細ったその腕は、この部屋と同じように白く、自分のものという実感が妙に乏しかった。
「……前のときよりも、ずっと落ち着いて……」
「……は大丈夫ですか?」
視界から消えた少女と男の会話は、断片的にしか聞こえてこない。
ここはどこなのか、あなたたちは何者か……。
声を出そうとしたが、やはり喉は空気を漏らすだけだった。
「……時間の問題です。こうして馴染んでいけば……」
「ありがとうございます、先生」
重くゆっくりとした足音が遠ざかり、扉の閉じる気配がした。視界の外で、硬いものとガラスが触れ合うような、小さな音が続く。
「お兄様」
少女の口元には、初めて見たときと変わらない微笑みが浮かんでいる。
「今日の分のお薬をお飲みください」
口の中にカプセルが押し込まれ、ガラスの吸飲みが傾けられた。
生ぬるい水の感触に、ごくりと喉がなって、カプセルが流れ落ちていく。
「おやすみなさい、お兄様」
遠ざかっていく意識の中で、その声だけが、いつまでも澄んで響いていた。




