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空白の肖像  作者: 音鳴 凪


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1. White

 最初に意識が捉えたのは、『白』だった。


 天井なのか壁なのか、あるいは自分自身の内側なのか、その区別がつかないまま、境界のない白が視界の全域を塗り潰していた。


 音も匂いもなく、ただ白だけがあった。水の中でも空気の中でもない場所に、意識だけが頼りなく浮かんでいる。


 身体がどこにあるのかわからない。そもそも身体があるのかどうかさえ、確かめる方法がなかった。


 どれほどそうしていたのだろうか。


 やがて身体に重さが戻ってきた。背中の全面に、硬くもなく柔らかくもない、温度のない平面が触れている。

 シーツという言葉が意識のどこかで点滅して、それがベッドの上に横たわっている自分の姿をぼんやりと結ばせた。


 右手の人差し指を動かそうとするが、何もおきなかった。


 脳は確かに明瞭な命令を送り出したはずだったが、指がそこにあるのかどうかさえ判然とせず、手首も肘も肩も、その命令はどこにも届かないまま消えていった。


 左手、足、首、どこも同じで、動くところが何ひとつない。


 唯一、瞼だけがかろうじて自分のものとして機能しており、開いた目が映し出す白い天井と、その端で白い壁に切り替わる直線だけが、世界との接点のすべてだった。


 何度かまばたきを繰り返したあと、眼球を動かすと、わずかに動いた視線は、初めて天井以外の風景を捉えた。


 右にはカーテンの白い襞が天井から垂れ下がり、左には角の丸い白い棚のようなものが見える。


 少しずつ明瞭になっていく意識は、ぼんやりと自分の状態を認識し始めた。

 ここは病院のような場所で、自分は何らかの理由で横たわっている……?


 声を出そうとすると喉の奥で何かが詰まるような圧迫感があったが、それが音になることはなかった。

 気管を通る空気の微かな摩擦だけが、自分がまだ呼吸をしている、つまり生きているという事実を辛うじて証明している。


 意識が薄れかけては戻り、戻っては薄れ、その繰り返しのあいだに、自分が眠っていたのか起きていたのかの境目さえ曖昧になっていった。


 白い天井からは何の手がかりも読み取れず、光の角度は変わらず、影も生まれず、いまが昼なのか夜なのかを判断する材料は何もない。


 どれだけの時間がたったのだろうか。


 意識が戻ってから初めて、耳に自分の呼吸音以外の音が聞こえてきた。

 スリッパが床を擦るのではなく、素足か、あるいは薄い靴下がタイルの上を滑っているような、柔らかくて小さく軽い音。


 微かな音と空気の流れが伝わり、部屋の扉が開かれた気配を感じる。


 消毒液のような匂いしか感じられなかった鼻に漂う、甘い香り。

 花のような、果実のような、しかしそのどちらとも断定できない曖昧な甘さが、白い空気をわずかに染めた。


 足音がベッドの脇で止まると、視界に人の顔が入ってくる。


 透き通るような白い肌、片方の肩から流れ落ちている髪は、色素を忘れたような淡い金色。

 薄桃色の唇は薄く弧を描いているが、微笑みと呼ぶには静かすぎる、完成された絵画のような表情。


「……お兄様」


 高すぎず低すぎず、部屋の白に溶け込むような静かな声が響く。


「お兄様、ようやくお目覚めになったのね」


 少女の手が伸びて、額に触れた。

 ひんやりとした指先が、こめかみから髪の生え際にかけてゆっくりとなぞっていく。


「よかった。ずっと待っていたの」


 カタン、という音がして、少女の顔が視界から消える。

 椅子に座ったのであろう少女は、その両手で動かぬ私の右手を包みこむ。

 頬に引き寄せたのか、手に少女の吐息が伝わる。


「何も心配いらないわ」


 お兄様。


 しばらくして、少女はもう一度繰り返すと、立ち上がって私の顔を覗き込んだ。


「……お身体が動かないのね。先生を呼んでまいります」


 少女が去っていく気配を感じながら、私はいまやはっきりと覚醒した意識の中で、答えの出ない問題を自覚する。


 あの少女は私の顔を見て、はっきりと『お兄様』と呼んだ。


 しかし、私は——女だ。


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