第89話 視察報告書は十倍になりました
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こうして、その後も一行の視察は続けられた。
果樹園、牧場、農産物の加工場。
アリスが幼い頃に作った物理道具は、ベレニケ領のさまざまな場所で、今も領民たちの暮らしを支えていた。
しかし、長く使い続けたことで見つかった問題もある。
現場の話を聞くたびに、アリスとセドリックは原因を調べ、新たな改善案を考えた。
そして、二人が何かを思いつけば、レオナルドやマクシミリアン、リリィ、時にはカイルまでもが、別の使い道を口にする。
そのたびに、同行した事務官たちの筆が忙しく動いた。
物理道具の状態。
使用している領民の意見。
修理や交換が必要な箇所。
新たに加えるべき安全装置。
他の領地や王宮、騎士団へ応用できる可能性。
今後、調査しなければならない事項。
一つの視察先を訪れるたびに、報告書へ新たな項目が加わっていった。
そして、予定されていた全ての視察を終えた日。
一行はベレニケ伯爵邸の中庭へ集まっていた。
王都へ持ち帰る荷物の中には、出発時にはなかった大きな木箱がいくつも並んでいる。
その全てに、視察中に事務官たちがまとめた報告書や図面が詰められていた。
「本当に、全て報告書なのか?」
カイルが木箱を見ながら尋ねる。
「はい。当初予定していた量の十倍以上になっております。」
事務官が平然と答えた。
「なお、一箱目が視察した物理道具の報告書です。二箱目以降には、新たな改善案、応用可能な場所、今後必要となる調査や計算の項目が収められております。」
「視察そのものより、視察中に増えた案件の方が多くないか?」
「そのとおりでございます。」
否定してほしかったカイルは、何も言えなくなった。
カイルは王宮から知らされていた座標を書き留めた紙を取り出すと、アリスに渡す。
王宮内に設けられた転移用広間の位置を、正確な数値によって表したものである。
「それでは、王宮へ戻りますわ。」
アリスは一行と荷物が転移魔法の範囲へ入っていることを確認した。
転移先の座標を指定し、魔力を流す。
足元へ魔法陣が広がり、淡い光が一行と木箱を包み込んだ。
次の瞬間、周囲の景色が変わる。
一行は、王宮の転移用広間へ到着していた。
人だけでなく、十倍以上に膨れ上がった報告書も、一箱残らず王都へ持ち帰られたのである。
◇ ◇ ◇
その後、カイルとレオナルドは、事務官たちを伴って王太子の執務室を訪れた。
二人の後ろから、報告書の入った木箱が次々と運び込まれてくる。
一箱。
二箱。
三箱。
それでも終わらない。
執務机の前へ積み上げられていく木箱を、王太子は無言で見つめていた。
最後の箱が置かれると、王太子はカイルとレオナルドへ目を向ける。
「お前たちは、何をしに行ったんだ?」
「物理道具の視察です。」
カイルが答える。
「私には、国中へ新たな設備を作るための計画書に見えるが?」
「視察した結果、このようになりました。」
レオナルドが説明する。
王太子は、一番上に置かれた報告書を手に取った。
揚水装置の修理と改良。
回転を安定させるための車輪。
水の流れを滑らかにする空気室。
一定以上の圧力を逃がす安全弁。
取水門の歯車と釣り合い重り。
各地の川へ取水門を設置するための調査。
王宮の門へ、歯車を利用した開閉装置を取り付ける案。
織物工房の革帯を乾かす温風送風装置。
騎士団の防具や馬具を乾かす大型乾燥室。
貴族の屋敷と王宮で洗濯物を乾かす設備。
村で保存食を作るための食品用乾燥装置。
書庫の書物や公文書から湿気を取り除く送風設備。
ページをめくるたびに、新たな案件が現れる。
「カイル。」
「はい。」
「王宮の門へ利用する案を出したのは、お前だと書いてある。」
「……はい。」
王太子は、次の報告書へ目を移した。
「レオナルド。」
「はい。」
「温風送風装置を騎士団へ設置する案は、お前が言い出したそうだな。」
「正確には、兄が喜ぶだろうと呟いただけです。」
「その一言から、騎士団、貴族の屋敷、王宮、村、書庫へ話が広がったと書かれているが?」
レオナルドは黙った。
「お前たちは、アリス嬢とセドリックが行き過ぎないよう、止める側ではなかったのか?」
「私たちも、最初は止めるつもりでした。」
カイルが弁明する。
「最初は?」
「現場で実物を見ると、他にも使えるのではないかと思いまして……。」
「それを止められなかったのです。」
レオナルドも小さく付け加えた。
王太子は二人を見た後、もう一度、積み上げられた報告書へ目を向けた。
内容だけを見れば、どれも領民や兵士、王宮で働く者たちの負担を減らす可能性がある。
取水門は、干ばつから田畑を守る。
温風乾燥装置は、雨の日でも衣服や装備を乾かし、保存食を作ることができる。
書庫の湿気を取り除ければ、貴重な記録も長く残せる。
捨て置ける案件は、一つもなかった。
「分かった。関係する部署へ報告書を回し、必要性と費用を調査させよう。」
「ありがとうございます、兄上。」
カイルが安堵したように息を吐く。
「ただし。」
王太子は、積み上げられた木箱を指差した。
「この全てに目を通し、優先順位を付ける作業は、お前たちにも手伝ってもらう。」
「私たちもですか?」
「自分たちで増やした案件だろう。」
カイルとレオナルドは、改めて木箱の山を見た。
当初予定されていた報告書の、十倍以上。
視察中には次々と案を出していた二人も、その全てを王都で処理することまでは考えていなかった。
「お前たちは、本当に何をしに行ったんだ……。」
王太子の呟きが、書類で埋まり始めた執務室に静かに響いた。
こうして、ベレニケ領の物理道具を確認するために始まった視察は、国中へ新たな物理道具を広めるための、膨大な仕事を生み出して終わったのである。




