第88話 まだ、三か所目です
※毎日 朝5時に予約投稿で更新中
「恐れながら、カイル殿下」
それまで一行の後ろで記録を取っていた事務官が、遠慮がちに声を掛けた。
「何だ?」
カイルは、既に嫌な予感を覚えながら振り返る。
「この温風送風装置ですが、書物の虫干しにも使えるのではないでしょうか」
「書物に?」
「はい。王宮の書庫には、古い書物や公文書が大量に保管されております。定期的に書庫から運び出して虫干しをしておりますが、天気が悪ければ行うことができません」
別の事務官も、手にしていた筆を止めて顔を上げる。
「雨が続いた年には、書物が湿気を含み、紙が波打ったこともありました。黴が生じれば、貴重な記録が読めなくなる恐れもあります」
「それでしたら、書庫用の装置も作れますわ!」
アリスが即座に反応した。
「ただし、書物へ強い温風を当ててはいけません。紙が変形したり、表紙に使われている革が傷んだりする可能性がありますもの」
「書庫用は温度を低く抑え、書棚の間へゆっくりと空気を流す方がよいでしょう」
セドリックが続ける。
「床の近くから乾いた空気を送り、湿気を含んだ空気を上部から外へ逃がす。書庫の中で空気が循環せず、必ず外へ抜けていく構造が必要です」
「それなら、書物を一冊ずつ外へ運び出さなくても、書棚へ並べたまま湿気を取り除けるかもしれませんわ!」
事務官は大きく頷くと、再び猛烈な勢いで筆を動かし始めた。
カイルが、その手元を覗き込む。
「待て。今、自分で出した案まで記録したのか?」
「はい」
事務官は当然のように答えた。
「視察中に発見された問題点と、新たに出された改善案は、全て記録するよう命じられておりますので」
「命じたのは誰だ?」
「カイル殿下です」
「……そうだったな」
視察を始める前、カイルは事務官たちへ、物理道具の状態や領民の意見を一つも漏らさず書き残すよう命じていた。
もちろん、その時に想定していたのは、既に設置されている物理道具についての報告である。
視察先で次々と生まれる、新しい装置の案まで記録させるつもりはなかった。
しかし、命令は命令だった。
事務官たちは、最初に訪れた村で揚水装置の不具合が見つかった時から、一行の発言を全て書き残していた。
劣化した密閉材の交換。
車輪を利用して回転を安定させる改良。
空気室によって水の流れを滑らかにする方法。
一定以上の圧力がかかった時に、水を逃がす安全弁。
取水門を動かす大小の歯車と釣り合い重り。
川の水位と、水門を開いた高さの記録方法。
さらには、その仕組みを王宮の門へ利用する案まで記録されている。
そして、午後に訪れた織物工房では、革帯の湿気を取り除くための小さな温風送風装置から、新たな案が次々と増えていった。
温度を上げ、革帯に含まれた水分を蒸発しやすくすること。
革帯の周囲にたまった湿った空気を、風で運び去ること。
温風を均等に当てるため、箱の中へ仕切り板を設けること。
乾かすものに応じて、温度、風量、時間を変えること。
織物工房の革帯。
騎士団の防具や馬具。
貴族の屋敷と王宮の洗濯物。
村で作られる干し野菜、干し果物、干し肉、茸、薬草などの保存食。
王宮の書庫に収められた書物と公文書。
事務官たちは、それぞれに必要な装置の大きさ、乾かすもの、使用する場所、注意点、今後調査しなければならない事項まで整理していく。
「……随分と分厚くなっていないか?」
カイルが、事務官の抱える書類を見る。
「現在、当初予定していた視察報告書の三倍ほどになっております」
「まだ三か所目だぞ?」
「はい。このままの増え方が続けば、王都へ戻る頃には十倍を超える可能性があります」
事務官は淡々と答えた。
カイルは、これから訪れる予定になっている視察先の数を思い浮かべる。
まだ、視察は始まったばかりだった。
「カイル殿下」
別の事務官が声を掛ける。
「書庫用の温風送風装置について、王宮へ戻り次第、書物の種類と保管数を調査してもよろしいでしょうか?」
「……好きにしてくれ」
「承知いたしました」
許可を得た事務官は、嬉しそうに新たな項目を書き加えた。
こうして、物理道具の使用状況を確認するために始まった視察は、いつの間にか、新たな物理道具を国中へ広めるための調査へと変わり始めていた。
その全てを記録していた事務官たちの報告書もまた、視察を重ねるごとに、確実に厚みを増していったのである。




