第78話 婚約者になって変わること
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その日の夕刻。
ベレニケ伯爵邸の食堂には、いつもより少しだけ豪華な料理が並べられていた。
正式な婚約については、これからベレニケ伯爵家とヴァレリウス侯爵家との間で手続きを進めなければならない。それでも、本人たちの意思が確認され、アリスの両親も二人の婚約を認めたのだ。
ベレニケ伯爵は、せめて今夜くらいは皆で祝おうと、内輪だけの夕食会を開くことにしたのである。
「それでは、アリスとセドリック様の婚約に。」
伯爵がグラスを掲げる。
「正式な手続きはこれからですが、二人の未来が幸せなものとなることを願って。乾杯。」
「乾杯!」
全員がグラスを掲げた。
ただし、満面の笑みでグラスを掲げているのは、ベレニケ伯爵夫妻とリリィだけである。
カイル、マクシミリアン、ヨハン、レオナルドの四人は、それぞれ先ほど想像してしまった未来を振り払うことができず、どこか引きつった笑みを浮かべていた。
そのような男たちの心情など全く知らないアリスは、目の前に並べられた料理を眺めながら首を傾げる。
「婚約が決まると、夕食の品数まで増えるのですね。」
「アリス様! そこではありませんわ!」
向かいに座るリリィが、思わず身を乗り出した。
「もっと他に、何か感じることはございませんの?」
「感じること、ですか?」
アリスは改めて周囲を見渡した。
夕食が豪華になった。
両親が嬉しそうにしている。
リリィがなぜか自分以上に興奮している。
そして――。
「そういえば、セドリック様が隣に座っていますわね。」
ようやく気づいたアリスが、すぐ隣に座るセドリックへ顔を向ける。
これまでも食事を共にする機会はあったが、彼はカイルの側近として、常にカイルの後ろか近くに控えていた。
しかし、今夜は母の指示によって、セドリックの席がアリスの隣に用意されている。
「婚約者ですもの。これからは、こうして隣に座ることも増えるでしょうね。」
夫人が楽しそうに答えた。
「なるほど。婚約すると、座標が近くなるのですね。」
アリスは納得したように頷く。
「その理解でよろしいかと。」
セドリックも真面目な顔で答えた。
だが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
今日まで、アリスの隣に立つには何かしらの理由が必要だった。
護衛だから。
物理学を教わるため。
共同研究を行うため。
同じ視察団の一員だから。
だが、これからは違う。
婚約者として、堂々と彼女の隣にいられる。
その事実が、セドリックにはたまらなく嬉しかった。
「まあ……! お二人とも、もうすっかり婚約者同士ですわ!」
リリィは感動に瞳を潤ませ、両手を胸の前で握り締めた。
「ただ隣に座っているだけではないか。」
マクシミリアンが呆れたように言う。
「それが素晴らしいのです! これまで遠慮なさっていたセドリック様が、今はアリス様の隣に堂々と座っていらっしゃるのですよ!」
「遠慮していたようには見えなかったが……。」
アリスを追いかけ回していたセドリックの姿を思い出し、マクシミリアンは小さく呟いた。
その言葉は、幸いリリィの耳には届かなかった。
食事が進む中、ベレニケ伯爵はセドリックへ視線を向ける。
「セドリック様。ヴァレリウス侯爵家へのご報告は、王都へ戻られてからですかな?」
「はい。正式な申し入れについては、父と母へ報告した後、改めて書状をお送りいたします。」
「分かりました。こちらも準備を整えておきましょう。」
伯爵はそう答えた後、少しだけ表情を和らげた。
「それまでは、あくまで内々に決まった話となりますが……父親として、アリスをよろしくお願いいたします。」
「はい。必ず大切にいたします。」
セドリックは真剣な表情で答えた。
その言葉を聞き、夫人は嬉しそうに微笑む。
一方のヨハンは、二人のやり取りを複雑な思いで見つめていた。
アリスの婚約が解消された時、このまま妹が一生結婚しなかったとしても、ベレニケ家で面倒を見ればいいと思っていた。
研究にしか興味を示さないアリスが、自ら誰かとの婚約を受け入れる日が来るなど、考えたこともなかった。
それが今日、突然決まってしまった。
「ヨハン兄様。先ほどから、どうかなさいましたか?」
アリスに声を掛けられ、ヨハンは我に返る。
「いや。アリスが婚約するなんて、まだ少し信じられなくてね。」
「私もです。」
アリスはあっさりと頷いた。
「自分が再び婚約するとは、考えていませんでした。」
「それなのに、セドリック様の申し入れは受けたんだね。」
「はい。」
アリスは隣にいるセドリックを見た。
「セドリック様なら、私の研究を止めませんから。」
「そこなのかい?」
「とても重要なことです。」
即答する妹に、ヨハンは思わず苦笑する。
やはり、婚約者ができてもアリスはアリスだった。
けれど、セドリックを見るアリスの表情が以前よりも僅かに柔らかくなっていることに、ヨハンは気づいていた。
本人はまだ、それを恋愛感情として正しく理解していないのかもしれない。
それでも、二人が互いを大切に想っているのなら、兄として見守るしかない。
「セドリック様。」
食後のデザートが運ばれてきた頃、アリスが隣へ声を掛けた。
「婚約者になると、隣に座ること以外にも何か変わるのでしょうか?」
セドリックの手が止まる。
食堂にいた全員の視線が、二人へ集まった。
「そうですね……。」
セドリックは少し考えてから答えた。
「これまでよりも、あなたのそばにいる理由を探さなくてよくなります。」
「理由を探していたのですか?」
「はい。」
「なぜです?」
アリスは本気で分からないらしい。
セドリックは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「あなたのそばにいたかったからです。」
アリスの動きが止まった。
その頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。
アリスは慌てたように水の入ったグラスへ手を伸ばし、一口飲んだ。
「また、心拍数が上がりました……。」
「体調が悪いのですか?」
心配そうに顔を覗き込むセドリックに、アリスは首を横に振る。
「おそらく、先ほどと同じ反応です。」
「それなら、問題ありませんね。」
「はい。今のところ健康上の問題はないと思われます。」
二人は真剣な顔で頷き合った。
「なぜ、そこで医学的な確認になるのだ……。」
マクシミリアンが疲れたように呟く。
「素敵ですわ……。アリス様が照れていらっしゃいます!」
リリィは、今にも立ち上がって拍手を始めそうなほど興奮している。
そんな周囲を気にすることなく、アリスは少し考えた後、再びセドリックを見た。
「では、私もセドリック様のそばにいたい時は、理由を探さなくてよいのですね?」
今度は、セドリックの動きが止まった。
「……はい。もちろんです。」
返事をする声が、僅かに上ずっている。
それに気づいたカイルは、驚いたように目を見開いた後、堪えきれずに笑い出した。
「どうやら、セドリックにも同じ反応が出たようだな。」
「殿下……。」
セドリックが恨めしそうにカイルを見る。
だが、すぐにアリスへ向き直り、その手をそっと取った。
「これからは、いつでも私のそばへ来てください。」
「分かりました。」
アリスは握られた手を見つめ、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
正式な手続きは、まだ何一つ終わっていない。
指輪もなければ、婚約を公表する日も決まっていない。
それでも二人の間では、確かに何かが変わり始めていた。




