第75話 ベレニケ伯爵夫妻へのお願い
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「ベレニケ伯爵。」
セドリックが静かに立ち上がった。
その真剣な表情に、ようやく和らいだばかりの空気が再び引き締まる。
「私からも、お話ししたいことがございます。」
「セドリック様が、私にですか?」
ベレニケ伯爵が不思議そうに聞き返す。
「はい。」
セドリックは一度アリスへ目を向けた後、伯爵夫妻へ向き直った。
「アリス嬢との婚約を、正式に申し入れさせていただきたいのです。」
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、当事者であるアリスだった。
父と母は驚いたように目を見開き、ヨハンは何度も瞬きをしている。
そして――。
「きゃあああっ!」
リリィが両手を胸の前で握り締め、歓喜の声を上げた。
「セドリック様! ついにアリス様へ求婚なさるのですね!」
「リ、リリィ。今は黙っていろ。」
マクシミリアンが慌てて婚約者を止める。
「だって、マクシミリアン様! アリス様がお幸せになられるのですよ! これほど素晴らしいことが他にありますか!?」
「分かった。分かったから、今は静かに見守るんだ。」
「はい!」
返事だけは素直だったが、リリィは今にもセドリックの代わりに婚約を申し込みそうな勢いでアリスを見つめていた。
カイルはそんなリリィを見て苦笑した後、セドリックへ視線を戻す。
セドリックがアリスを想っていることは、随分前から知っていた。
本人は隠しているつもりだったようだが、誰の目にも明らかだった。
女性嫌いだった男が、毎日のように一人の令嬢の研究室へ通い、その令嬢の前でだけ一喜一憂しているのだ。気づかない方がおかしい。
(ようやく決心したか。)
カイルは、親友の恋が実ることを願いながら、静かに成り行きを見守る。
ベレニケ伯爵は、しばらくセドリックを見つめた後、静かに口を開いた。
「セドリック様のお気持ちは分かりました。しかし、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。」
「なぜ、アリスなのでしょう。」
「お、お父様!?」
アリスが驚いて父を見る。
「だって、気になるではないか。」
伯爵は困ったように笑った。
「親の私が言うのもなんだが、アリスは普通の令嬢とは少し……いや、かなり違う。」
「お父様! 今、かなりとおっしゃいましたね!?」
「そこは重要ではないよ、アリス。」
「私には重要です!」
父娘のやり取りに、セドリックの表情が僅かに緩む。
「アリス嬢が、他の令嬢とは違うことは承知しております。」
「セドリック様まで!?」
「そして、その違いに惹かれました。」
アリスが口を閉じる。
セドリックは、真っ直ぐに伯爵を見た。
「私はこれまで、婚姻とは家のために結ぶものだと考えていました。いずれ必要になれば、家が選んだ相手と婚約する。それで構わないと思っていたのです。」
誰かを好きになり、その人と人生を共にしたいと願う。
セドリックは、自分がそのような感情を持つとは思っていなかった。
「最初は、ただ興味を持っただけでした。婚約破棄を告げられながら、悲しむどころか研究時間が増えたと喜んでいた令嬢が、何を考えているのか知りたくなったのです。」
「やはり、あの時の私は喜んでいるように見えていたのですね。」
「隠せていると思っていたのですか?」
「完璧に隠していたつもりです。」
「会場から走って出ていきそうになっていましたよ。」
「まあ……。」
アリスは今になって少し恥ずかしそうに視線を逸らした。
「あの時は、研究時間が大幅に増えることが嬉しくて……。」
「知っています。」
セドリックは小さく笑った。
「だからこそ、あなたが何を研究しているのか知りたくなりました。そして、あなたから物理学を学び、この世界を今までとは全く違う視点で見ることができるようになった。」
最初は、執務を効率化するためだった。
だが、毎日研究室へ通い、アリスと過ごすうちに、それだけではなくなっていった。
彼女の話を聞きたい。
彼女の考えを理解したい。
彼女と一緒に、新しい理論を生み出したい。
「いつの間にか、私は物理学だけではなく、アリス嬢自身を知りたいと思うようになっていました。」
アリスは何も言わず、セドリックを見つめている。
「アリス嬢が新しい理論を思いつけば、誰よりも先に聞きたい。危険なことを始めようとすれば、私が隣で守りたい。そして、一人では実現できないことならば、私が力になりたい。」
セドリックは、伯爵へ深く頭を下げた。
「アリス嬢を心からお慕いしております。どうか、彼女との婚約をお許しいただけないでしょうか。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて伯爵は妻と顔を見合わせる。
夫人は穏やかに微笑み、夫へ小さく頷いた。
「ありがとうございます、セドリック様。」
伯爵は、ゆっくりと口を開いた。
「娘をそこまで大切に想ってくださる方がいること、父親として嬉しく思います。」
セドリックが顔を上げる。
「では……。」
「ですが、私たちが決めることではありません。」
伯爵はアリスへ顔を向けた。
「以前の婚約は、家同士の都合で私が決めました。アリスの気持ちを聞くこともなく、相手を決めてしまった。」
夫人も優しく娘を見つめる。
「今度は、あなた自身が決めなさい。」
「私が、ですか?」
「あなたの人生ですもの。」
「私たちは、アリスが選んだ答えを受け入れます。」
両親にそう言われ、アリスは困ったようにセドリックを見た。
「セドリック様。」
「はい。」
「先ほどのお話で、セドリック様が私を大切に思ってくださっていることは分かりました。」
「では……。」
「ですが、婚約となると、私にはよく分かりません。」
「分からない?」
「はい。これまでの婚約は、お互いの家に利益をもたらすためのものでした。ですが、今回はそうではありませんよね?」
「もちろんです。」
「それならば、セドリック様は私とどのような関係になりたいのですか?」
アリスの問いに、セドリックは少し考え込んだ。




