第5話 第二王子と側近の琴線に触れる令嬢
放課後の王立魔法学園。生徒会室では、羽ペンの走る音と、時折めくられる書類の音だけが響く静謐せいひつな空間だった。生徒会長である第二王子カイル・アストルムは、窓から差し込む夕日を背に、山積みの書類を鮮やかな手際で捌さばいていく。その隣で、側近のセドリック・ヴァレリウスが、氷のような無表情で報告書を手渡してきた。
「そういえば、セドリック。先日行われた学園の舞踏会で、ちょっとした騒動があったらしいね」
カイルが顔を上げずに口を開いた。将来、王になる兄を支える身として、また学園の統治者として、貴族間のパワーバランスに影響を及ぼす不祥事には敏感である必要がある。
「……グランディス公爵子息による婚約破棄の件でしょうか」
セドリックは淡々と応じた。その声には、いつもの通り感情の欠片も含まれていない。
「ああ、それだ。派閥争いに発展する懸念はあるかな?」
「調査の結果、問題なしと判断しました。グランディス公爵家とベレニケ伯爵家の関係は、政治的・経済的にもメリットがすでに消失しており、両家合意の上での解消として処理されています。実力行使による報復や、派閥間の変動は確認されていません」
完璧な報告。カイルは満足げに頷いたが、ふと、隣に立つセドリックの手が、一瞬だけ止まったのを見逃さなかった。
(……また、思い出してしまった)
報告を行いながら、セドリックの脳裏には、アリス・ベレニケの顔が浮かんでいた。彼にとって、女性という生き物は「理解しがたいもの」でしかなかった。美貌や地位を求めて擦り寄ってくるその瞳に、興味を抱いたことは一度もない。
だが、あの夜、背後で聞こえた彼女の言葉――『脳内の特定の神経伝達物質』だの『エネルギー障壁』だのという意味不明な単語。そして、婚約を破棄されたにもかかわらず、まるで莫大な資産を手に入れたかのように輝いていたあの瞳。
(彼女が言っていた意味不明な言葉はなんだ? なぜ、あそこまで喜んでいた? 彼女が行っているという『研究』には、婚約者の座を捨てるほどの価値があるというのか……)
「……セドリック?」
「っ、失礼しました」
カイルの声に、セドリックはハッと我に返った。自分としたことが、執務中に一人の女性、それも「変人」と名高い令嬢について深く思考を巡らせてしまうとは。
カイルは、ペンを置いて椅子の背もたれに体を預けた。常に冷静で完璧な彼が、報告の途中で意識をどこかへ飛ばしていた?
報告にあるマクシミリアンとは実技授業で一緒になることもあるが、彼は短慮で分かりやすい性格だ。特に気にかける問題ではない。一方、婚約を破棄された令嬢については、研究室に入り浸っている変人だと聞く。
カイルは直感的に、セドリックの気を引いたのは「令嬢の方」だと当たりをつけた。 目の前の側近は、女性嫌いを拗こじらせ、これまでどんな絶世の美女を前にしても眉一つ動かさなかった男だ。
(面白い。セドリックが『女性』について考えているなど……)
カイルは、柔和な微笑みを浮かべながら、カマをかけてみることにした。
「セドリック、君にしては珍しいね。今の間……さては、あの現場にいたのかな? 婚約を破棄されたベレニケ嬢が、あまりに可哀想で同情でもしたかい?」
「同情、ですか。……いえ、その必要はないかと」
案の定、セドリックは引っかかった。彼は無意識のうちに、その夜の光景を詳しく、そして熱を帯びた口調で語り始めた。
「彼女は同情されるどころか、歓喜していました。あの表情は、義務からの解放を喜んでいるというレベルではなく……何か別の、愉悦を感じているようでした。彼女が口にした『研究』という言葉。それが婚約者の座を歓喜して手放すのとどう結びついているのか、不可解でなりません」
カイルはエメラルドの瞳を細めた。セドリックがここまで一人の人間――それも女性――に対して分析的に語るのは初めてのことだ。
「へえ、君がそこまで興味を惹かれる令嬢か。……『研究』、ね」
カイルの好奇心が刺激される。政治的な力関係には変動がない。だが、学園という箱庭の中に、セドリックの「完璧」な鉄壁を揺るがすほどの異物が現れた。それは、セドリックの主として、また友として無視できない興味の対象だった。
「そのベレニケ嬢、学園ではどう過ごしている?」
「……ほとんどの時間を個人の研究室で研究に費やしているようです。社交の場には一切現れません」
「ふうん。ますます変わっているね」
二人の間に、奇妙な沈黙が流れた。本来であれば、私的な興味で生徒の身辺を探るような真似は慎むべきだ。だが、彼らの中にある「優れた者ゆえの退屈」が、アリスという謎の存在に強く惹きつけられていた。
「セドリック。彼女の研究内容、少し調べて見たいと思わないかい?」
「……生徒会の執務として、不審な行動がないか確認するという名目であれば……」
セドリックは、自らの好奇心に「義務」という蓋をして答えた。
カイルはそれを見て、心の中でくすりと笑った。
(セドリック。君はまだ気づいていないようだけど、それはもう、ただの調査じゃないよ)
夕闇が深まる生徒会室で、二人の天才は、まだ見ぬ「物理学者」の深淵に、一歩足を踏み入れようとしていた。




