第2話 真実の愛を見つけた婚約者と自由を手に入れた令嬢
社交シーズンが幕を開け、王立魔法学園でも舞踏会が開かれた。煌びやかな光とともに、それ以上の重苦しい「貴族の義務」が会場中に満ちていた。高い天井からは魔力灯が柔らかな光を降らせ、色とりどりのドレスが万華鏡のように揺らめいている。
そんな会場の隅、柱の影で一人シャンパングラスを傾ける青年がいた。
侯爵令息であり、第二王子の側近を務めるセドリック・ヴァレリウスである。中性的な美貌を持ちながらも学園トップクラスの頭脳と魔法の実力を兼ねそろえた彼は、常に令嬢たちの羨望の的で、誰もが彼の婚約者の座を狙っていた。セドリックは、向けられる視線の裏にある計算や、まとわりつくような甘い香水の香りに心底辟易していた。
(女という生き物は、どうしてこうも煩わしいのか)
その時――中央のホールで、一際大きな声が響いた。
「アリス・ベレニケ! 私は今日、貴様との婚約を破棄させてもらう!」
マクシミリアン・グランディス公爵子息が、傍らに子爵令嬢ランバート・リリィを抱き寄せ、高らかに宣言していた。 セドリックは眉をひそめ、また「真実の愛」とやらを掲げた狂劇が始まった……とため息をついた。
「婚約破棄……」
名前を呼ばれた私は、思考の海から現実へと引き戻された。
マクシミリアン様が何か叫んでいる。隣には、以前から彼の周囲で観測されていたリリィ様が、これ以上ないほど密着した状態で静止している。
(なるほど。この状況を物理学的に記述すれば『二体における束縛状態からの解消』ね)
私の脳内では、瞬時に計算が始まった。
これまでのマクシミリアン様との定期的な交流は、一回につき平均三時間。移動時間と準備を含めれば、一ヶ月で約十時間の損失。これが結婚に発展すれば、家政の管理や社交義務により、私の可処分時間は現在の百分の一以下にまで減少する……。
(……素晴らしい。この婚約破棄が成立すれば、研究効率は飛躍的に向上するわ!)
心の中でガッツポーズをしながらも、私は令嬢としての仮面を保った。マクシミリアン様は「冷酷な女だ」と私を罵り、リリィ様との愛がいかに高潔であるかを熱弁している。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします。マクシミリアン様」
私はマクシミリアン様を見つめながら答えた。彼らは私が泣き崩れるとでも思っていたのか、拍子抜けした顔をしている。私は、今この瞬間に感じている知的な感動と共に、不思議に感じていることを思わず言葉にしてしまった。
「一つだけ疑問なのですが、お二人が体現されている『真実の愛』という現象について」 「な、なんだ。潔く非を認めるというのか?」
「いいえ。大衆の面前で、脳内の特定の神経伝達物質……失礼、感情の昂ぶりを制御できず、社会的信用という大きな代償を払ってまで本能に従われるその勇気。そして羞恥心というエネルギー障壁さえも、お二人の熱量――いえ、活性化エネルギーの前には無力なのですね。実に興味深い事例です」
それは私なりの、一点の曇りもない賞賛であり、大きな謎でもあった。
「……え?」
その場を離れようとしていたセドリックは、思わず足を止め、振り返った。
今、あの令嬢は何と言った? よくわからない言葉も混じっていたが……愛を語る二人を、まるで得体の知れない実験動物を見るような目で、しかも丁寧な言葉で無邪気に痛烈に突き放さなかったか。
リリィの顔は真っ赤になり、マクシミリアンは言葉を失って絶句している。集まって様子を伺っていた人達も呆然としている。
彼女が言ったのは「愛に狂って恥を晒しているのは滑稽ですね」という、これ以上ないほど残酷な事実の指摘だったのだ。
「では、私はこれにて失礼いたします。早速、研究に……あ、いえ、早急に婚約破棄について両親に報告しなければなりませんので……」
アリスは完璧な礼を見せると、出口へと向かった。 セドリックは、彼女の横顔を捉えた。悲しみなど微塵もない。それどころか、喜びを必死に押し殺し、今にも小走りで駆け出しそうなほど躍動感に溢れていた。そんな彼女の背中を、呆然としながら見送った。
(あの女……。今、これから研究ができると心躍らせていなかったか?)
女性嫌いを拗らせ、他人に興味など持たないはずのセドリックの胸に、かつてない好奇心が芽生えた。 彼女は、他の令嬢たちが見ている色恋や権力とは、全く別の思惑で動いている。一体、彼女は何者なんだろうか?
「アリス・ベレニケ……か」
セドリックは、自嘲気味に笑った。
彼女が去った後のホールには、滑稽な二人の気まずい沈黙と周囲の失笑だけが残されていた。セドリックにとって、あんなにも不快だった舞踏会が、ほんの少しだけ、明日への退屈を紛らわせてくれるものに変わっていた。




