番外編 愛情表現の反作用①
わたくしには、現在、解決すべき問題が一つある。
それは、セドリック様に一度も勝てないことだ。
もちろん、研究の話ではない。
物理学の知識ならば、今もわたくしの方が多い。セドリック様の理解力には時折驚かされるものの、長年研究に携わってきた経験まで、すぐに追いつかれることはないだろう。
問題は、愛情表現である。
セドリック様は、何の前触れもなく、突然わたくしへ愛情を伝えてくる。
例えば、ランバート領の地下を調査した時。
足元の亀裂へ近づこうとしたわたくしの手を掴み、
『わたくしを何だと思っていらっしゃいますの?』
と尋ねたところ、セドリック様は平然と答えた。
『大切な婚約者です』
何の躊躇いもなかった。
言葉を選ぶための時間も、周囲を確認する様子もない。
まるで、太陽が東から昇ることと同じくらい当然の事実を述べたかのような顔をしていた。
その結果、わたくしの思考は一時的に停止した。
顔の表面温度が急激に上昇し、心拍数にも明らかな変化が生じた。
それだけではない。
研究所で夜遅くまで作業をしていた時には、
『アリスと一緒に研究できる時間が、私は一番好きです』
と、突然言われた。
卒業式の日には、
『これからも、あなたが新しいものを見つける瞬間を、一番近くで見ていたい』
と言われた。
先日は、わたくしが研究について話し続け、用意された菓子にまったく手を付けていなかったところ、
『楽しそうに話すアリスを見ているだけでも幸せですが、何か食べてください』
と、皿を差し出された。
あまりにも自然に言うため、セドリック様本人には、わたくしを照れさせているという自覚がない可能性もある。
しかし、結果は毎回同じである。
わたくしばかりが言葉を失い、顔を赤くし、セドリック様は満足そうに微笑んでいる。
これは公平ではない。
一方からのみ作用が加えられ続け、もう一方には何の反作用も起きていない状態である。
わたくしは、この不均衡を是正することにした。
つまり――仕返しである。
◇
セドリック様を照れさせるには、どうすればよいのか。
まず、これまでにセドリック様から言われた言葉を思い出し、どの要素がわたくしの感情へ強く作用したのかを分析した。
重要なのは、率直さである。
遠回しな表現では、セドリック様が意味を理解するまでに時間がかかる可能性がある。
次に、予想外であること。
事前に察知されれば、心の準備をされてしまう。
そして、周囲に人がいること。
二人きりの時よりも、大勢の前で愛情を伝えられた方が、羞恥心は増大するはずだ。
内容。
タイミング。
環境。
全ての条件を整える必要がある。
言葉については、三日かけて考えた。
途中、物理学的な表現を用いることも検討した。
『セドリック様は、わたくしにとって不変の基準点です』
これは悪くない。
だが、基準点だけでは愛情が十分に伝わらない可能性がある。
『セドリック様の側にいると、わたくしの心は最も安定した状態になります』
これも事実ではあるが、安定という言葉では、セドリック様を退屈な存在だと言っているように受け取られる危険性がある。
やはり、愛情表現は正確でなければならない。
考えた末に、わたくしは一つの文章を完成させた。
これならば、セドリック様も間違いなく照れる。
◇
実行の機会は、すぐに訪れた。
物理学の普及施策の一環として、王宮では新たに
「王立物理学交流夜会」が催されることになった。
研究者や文官だけでなく、貴族や騎士、魔導具に関わる者たちを広く招き、物理学を用いた技術の紹介や意見交換を行うための夜会である。
会場には軽食や菓子、飲み物が並べられ、参加者はそれぞれ好きなものを手に取りながら、自由に歓談している。
立食形式のため、皆が一か所に集まっているわけではない。
しかし、しばらくすると、王太子殿下を中心に、わたくしたちの周囲へ自然と人が集まった。
集まっているのは、王太子殿下。
カイル殿下。
レオナルド様。
マクシミリアン様とリリィ様。
エレノア様。
そして、わたくしとセドリック様である。
愛情表現による反応を確認するには、十分な人数だった。
今ならば、会話も途切れている。
セドリック様に心の準備をさせず、なおかつ全員が聞いている状態で実行できる。
理想的な条件である。
わたくしは手にしていたグラスを近くの給仕へ預け、セドリック様へ向き直った。
「セドリック様」
突然呼ばれたセドリック様が、わたくしを見つめる。
「どうしました、アリス?」
皆の視線が集まった。
ここまでは計画どおりである。
「セドリック様へ、お伝えしたいことがございますの」
セドリック様は僅かに目を見開いた。
既に、普段とは異なる反応が確認できている。
わたくしは内心で手応えを感じながら、考えてきた言葉を口にした。
「セドリック様は、わたくしにとって大切な基準点ですわ」
セドリック様が瞬きをする。
「どれほど遠くへ進んでも、あなたのいる場所を基準にすれば、わたくしは自分の進む方向を見失わずに済みます」
セドリック様の表情から、少しずつ余裕が消えていった。
効果が現れ始めている。
わたくしは言葉を続けた。
「これから先に起こる全ての変化を、わたくしはセドリック様と同じ時間の中で観測したいと思っております」
会場が静かになった。
「新しい発見も、成功も、失敗も、喜びも……これから先の人生で得る全てのものを、あなたと分かち合いたいのです」
セドリック様の動きが完全に止まった。
予想以上の反応である。
わたくしは、まっすぐにセドリック様を見つめ満足していた。
沈黙が続き、誰も動かない。
グラスを口元まで運んでいたカイル殿下も、その姿勢のまま止まっている。
リリィ様は両手で口元を覆い、目を輝かせていた。
エレノア様は驚いたように目を見開いた後、柔らかな笑みを浮かべている。
レオナルド様は、何かを予測していたかのように、静かにグラスをテーブルへ戻した。
王太子殿下だけは、非常に興味深そうな顔で、わたくしとセドリック様を交互に見ている。
そして、セドリック様は――固まったまま、一言も発しなかった。
わたくしは首を傾げた。
照れているというより、思考そのものが停止しているように見える。
「……セドリック様?」
返事がない。
「聞こえませんでしたの?」
「聞こえて、います」
ようやく返ってきた声は、僅かに震えていた。
これほど動揺したセドリック様を見るのは初めてである。
やはり、大勢の前で実行したことが効果を増大させたのだろう。
実験は成功した。
そう判断した時、隣からマクシミリアン様の低い声が聞こえた。
「……アリス」
「何ですの?」
マクシミリアン様は、信じられないものを見るような目でわたくしを見ていた。
その表情には、呆れと困惑、そして諦めが混ざっている。
「それ……プロポーズだよな」
「…………」
今度は、わたくしの思考が停止した。
「何をおっしゃっていますの?」
「これから先の人生、あなたと分かち合いたいと言っただろう!」
「言いましたわ。正確に愛情を伝えるためには、必要な表現ですもの」
「それをプロポーズと言うんだ!」
マクシミリアン様の声が、会場へ響いた。
「ですが、わたくしとセドリック様は、既に婚約しておりますわ」
「そういう問題ではない!」
マクシミリアン様は、近くの料理台へ片手をついた。
「お前は今、自分からセドリックに、生涯を共に分かちあいたいと言ったのだ! 婚約していようがいまいが、立派なプロポーズだ!」
「そんな……」
わたくしは、先ほど自分が口にした言葉を、もう一度頭の中で確認した。
大切な基準点。
同じ時間の中で、全ての変化を観測したい。
人生で得る全てのものを分かち合いたい。
一つずつは、愛情を正確に伝えるために選んだ表現である。
しかし、全てをつなげると――。
「……本当ですわ」
「今気づいたのか!」
マクシミリアン様が頭を抱えた。
「お前は、なぜ研究以外のことになると、最も重要な意味を確認せずに実行するんだ!」
「意味は確認しましたわ! 最大限の愛情表現になるよう、十分に検討いたしましたもの!」
「最大限すぎる! 残りの人生を全て差し出しているではないか!」
「差し出してはおりませんわ。共有したいと――」
「それが同じ意味だと言っている!」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。
わたくしの顔へ、急激に熱が集まり始めた。
しかも、王太子殿下を含む大勢の前である。
セドリック様を照れさせるため、自ら選んだ条件だった。
まさか、その条件が全て自分へ返ってくるとは思っていなかった。
「アリス」
セドリック様の声がした。
恐る恐る顔を向ける。
セドリック様は、まだ立ったままだった。
だが、先ほどまでの硬直は消えている。
代わりに、その瞳には、これまで見たことがないほど強い喜びが浮かんでいた。
それを抑えようとしているのか、手にしていたグラスを置いた指先が僅かに震えている。
「今の言葉は、本心ですか?」
「それは……」
全員の視線が、再びわたくしへ集まった。
逃げ出したい。
しかし、虚偽の言葉でセドリック様を照れさせようとしたわけではない。
「当然、本心ですわ」
答えると、セドリック様の目が大きく見開かれた。
「相手を照れさせるためとはいえ、事実ではない条件を提示するのは不誠実ですもの。セドリック様が、わたくしにとって大切な基準点であることも、これから先の人生を共にしたいと思っていることも……全て本当ですわ」
言い終わる頃には、自分でも分かるほど顔が熱くなっていた。
セドリック様が、ゆっくりとわたくしの前へ歩み寄ってきた。
「ありがとうございます、アリス」
次の瞬間、セドリック様の腕が、わたくしの背へ回された。
「セ、セドリック様!?」
気づいた時には、その胸の中へ抱きしめられていた。
突然のことに、今度はわたくしの思考が完全に停止する。
耳元から、セドリック様の速い鼓動が伝わってきた。
背へ回された腕も、僅かに震えている。
セドリック様が、これほど喜んでいる。
その事実を理解した瞬間、胸の奥が熱くなった。
だが、それを言葉にする前に、セドリック様が耳元で囁いた。
「アリス。すぐに結婚式を挙げましょう」
「……はい?」
聞き間違いかと思った。
しかし、セドリック様はわたくしを抱きしめたまま、はっきりと繰り返した。
「できる限り早く式を挙げて、夫婦になりたいのです」
「お待ちくださいませ! なぜ、いきなり結婚式の話になりますの!?」
「アリスが、これから先の人生を私と共に歩みたいと言ってくださったからです」
「それは、セドリック様を照れさせるための愛情表現で――」
「本心ではなかったのですか?」
セドリック様の腕から、僅かに力が抜けた。
声にも不安が滲んでいる。
その変化を感じた瞬間、否定するという選択肢は消えた。
「本心ですわ。それは先ほども申し上げましたでしょう?」
「では、問題ありません」
セドリック様は再びわたくしを抱きしめた。
「私も、一日でも早くアリスと人生を共にしたいと思っています」
「ですが、わたくしたちは既に婚約しておりますし、いずれ結婚することも決まっておりますわ」
「いずれではなく、すぐに結婚したいのです」
「なぜ、その部分だけ急に具体的になるのですか!?」
「ずっと望んでいたからです」
あまりにも率直に答えられ、何も言えなくなった。
セドリック様は、ようやくわたくしを腕の中から解放した。
しかし、両手はわたくしの肩へ置かれたままだ。
「アリス」
「……何ですの?」
「できるだけ早く、私の妻になっていただけますか?」
真剣な瞳で見つめられる。
先ほどまで、セドリック様を照れさせることしか考えていなかった。
まさか自分の仕返しによって、改めて結婚を申し込まれるとは思ってもいない。
「わたくしは……」
言葉に詰まっていると、マクシミリアン様が小さく息を吐いた。
「さすがに、嫌なら断ってよいのだぞ」
その言葉で、わたくしは初めて自分の気持ちを考えた。
セドリック様と結婚することが嫌なのか。
答えは、考えるまでもなかった。
「……わたくしも、セドリック様と一日でも早く夫婦になりたいですわ」
口にした直後、自分が先ほどよりも直接的な愛情表現をしていることに気づいた。
顔の温度が、さらに上昇する。
一方、セドリック様の顔には、眩しいほどの笑みが広がった。
「ありがとうございます、アリス」
彼は再び、わたくしを抱きしめた。
「二度も抱きしめる必要はございませんわ!」
「嬉しいので、仕方がありません」
「仕方がない理由になっておりません!」
「話は決まったな」
突然、王太子殿下の声がした。
セドリック様の肩越しに顔を向ける。
王太子殿下は、既に何かの日程を確認するように、手帳を開いていた。
嫌な予感がした。
「何のお話ですの?」
「二人の結婚式だ」
王太子殿下は当然のように答えた。
「今夜中に両家へ使者を出す。必要な準備と最短で式を挙げられる日程を確認させよう」
「今夜中ですの!?」
「できる限り早く結婚したいのだろう?」
「それは、今、セドリック様へお答えしただけで――」
「王族二人を含む全員が聞いている。後から意味を知らなかったことにはできないな」
王太子殿下は非常に楽しそうな顔をしている。
「兄上、せめて先に両家の都合を確認してからの方が……」
カイル殿下が控えめに止めようとした。
「だから、これから確認させるのだ」
「止める気はないのですね」
「止める理由がない」
王太子殿下は即答した。
「二人とも既に学園を卒業している。これ以上、結婚を先延ばしにする必要もないだろう」
「最短で式を挙げられる日を計算しておられますね」
レオナルド様が冷静に指摘した。
「当然だ」
「夜会が終わる頃には、使者が出発していそうですね」
「そのつもりだ」
「お待ちくださいませ!」
思わず声を上げる。
しかし、その隣でセドリック様は、喜びを隠そうともせず王太子殿下へ頭を下げた。
「ありがとうございます。可能な限り早い日程でお願いいたします」
「セドリック様まで、何を即答しておりますの!?」
「アリスも、一日でも早く夫婦になりたいと言ってくださったではありませんか」
「それを皆様の前で繰り返さないでくださいませ!」
再び全員の視線が集まり、顔が熱くなる。
リリィ様は、感極まった様子で目元を押さえていた。
「アリス様からプロポーズなさって、そのまま結婚式まで決まるなんて……本当に素敵ですわ」
その隣では、エレノア様が穏やかに微笑んでいる。
「おめでとうございます、アリス様、セドリック様」
「ありがとうございます」
セドリック様が嬉しそうに答える。
わたくしは、まだ何が起きているのかを完全には処理できていなかった。
セドリック様を一度だけ照れさせる。
当初の目的は、それだけだったはずである。
それが、なぜか王太子殿下によって両家へ使者が送られ、結婚式を最短の日程で挙げる話にまで進んでいる。
その後、夜会が終わる前に、本当に両家へ使者が送られ、結婚式の準備は、王太子殿下の指示によって、可能な限り早く進められることとなった。
わたくしの意図とは関係なく、全てが驚くべき速度で決まり、王立物理学交流夜会も幕を閉じた。
「アリス」
会場を出る直前、セドリック様がわたくしの手を取った。
「今度は何ですの?」
「もう一度、先ほどの言葉を聞かせていただけませんか?」
「絶対に嫌ですわ!」
「では、二人きりの時にお願いします」
「そういう問題ではございません!」
「私は何度でも聞きたいのですが」
セドリック様は、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。
だが、その口元には、明らかに嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
結局、照れさせることには成功したのかもしれない。
一時的に思考を止め、声と手を震わせ、わたくしを二度も抱きしめるほどの反応を引き出したのだから、実験結果だけを見れば、当初の目的は達成されている。
しかし、その反作用によって、結婚式の日程まで決められようとしていた。
「……結局、一番赤くなっているのは、またお前ではないか」
マクシミリアン様が呆れたように言った。
「今回は、実験条件の設定に少々問題があっただけですわ」
「仕返しをしようとして、結婚式まで早められたのだぞ。完全な敗北ではないか!」
「まだ勝敗は確定しておりませんわ!」
「どこに逆転の余地があるんだ!」
マクシミリアン様の声が、王宮の廊下へ響き渡った。
今回の実験によって、一つの事実が明らかになった。
愛情表現には、作用反作用の法則は適用されないらしい。
こちらが与えた以上のものが、増幅されて返ってくることがある。
しかも、周囲に王太子殿下がいる場合、その反応は観測された瞬間、既成事実へと変換されることになる。




