第13話 完璧な側近、未知なる『原理(ルール)』の講義を受ける
アリスの研究室の黒板(マナを定着させる特製の石板)には、無数の数式と、この世界には存在しない「座標軸」の概念図が描き殴られていた。
「……セドリック様。今の説明で、重力加速度 g が物質の質量に依存しないという点は理解できましたか?」
「……理論上は。だが、重い石の方が速く落ちるのが世界の常識だ。空気抵抗という変数を無視した『理想環境』という仮定自体が、あまりに現実離れしている」
セドリックは、こめかみを押さえながら唸った。 一時間の講義を終えた彼の顔には、王政の難問を片付けた時以上の疲労が滲んでいる。だが、その瞳に宿る知の炎は消えていない。
(ふむ、既存の「属性魔法」というバイアスが、情報の入力を著しく阻害しているわね)
私は、彼が示した拒絶反応を「未知のデータに対する適応プロセス」として冷静に分析していた。
かつて、私はこの原理を幼い頃のマクシミリアン様に説明しようとしたことがあった。 彼は私の言葉を最後まで聞くことすらなく、「気味が悪い。魔法は神への祈りだ。理屈をこねるな」と吐き捨てた。家族ですら、私の話を愛おしげに聞きつつも、その本質には触れず「アリスは空想家だね」と優しく笑うだけだった。
(他者と情報の同期を図ることは、この世界では不可能だと結論づけていたけれど……)
「……ベレニケ嬢。この『ベクトル』という概念を、魔力の指向性に置換して考えれば、出力のロスを大幅に削減できるということか?」
セドリック様が、眉間に皺を寄せながらも、私の描いた数式の一端を指差した。
その質問は、核心を突いていた。
「その通りです。さすがは学園トップクラスの演算能力(CPU)の持ち主ですね。理解の解像度が非常に高いわ」
セドリック様は手帳を取り出すと、万年筆を走らせて自身のスケジュールを組み直し始めた。
第二王子カイルの側近としての激務、生徒会の運営、そして己の剣術の修練。分刻みで管理された彼の日常に、本来なら余白など一秒たりとも存在しないはずだった。
(私には王太子殿下たちから下された『魔力残滓の調査』という最優先の密命がある。これを理由に、カイル王子に他の執務の免除を申し出ることも可能だ。……いや、密命にかまけて本来の務めを疎かにするなど、側近としての矜持が許さない。睡眠時間を削り、食事中の書類確認を徹底すれば、毎日一時間の枠を意地でも作れるはずだ……!)
沈黙すること数十秒。彼は手帳に細かな予定を書き込むと、真剣な眼差しで私を見た。
「……明日から毎日、この時間に一時間を捻出する。国家の任務……いや、今後の執務効率を高めるための『投資』だ。私が毎日、君の講義を受けに来ることに問題はないな?」
「ええ、私は基本的にこのラボに引きこもって研究していますから。毎日でも歓迎しますわ。それにしても、殿下の側近としての執務に、生徒会執行部員としての執務、それに護衛としての鍛錬など忙しいでしょうに毎日1時間を捻出なさるなんて、セドリック様は処理能力(タスク管理能力)が非常に高いのですね」
私は、自分でも驚くほど素直な賞賛の言葉を口にしていた。
セドリック様が去った後、静まり返った研究室で、私は一人、書きかけの論文に目を落とした。
(原理を理解しようとする姿勢。それが、これほどまでに私の内的エネルギーを活性化させるとはね)
これまでは、誰にも理解されないことを「ノイズのない静かな環境」として受け入れてきた。だが、セドリック様との対話によって、私の孤独な研究室に初めて、外部との回路がつながったような気がした。
「……次は、運動量の保存則から教えましょうか」
私は、次回の講義内容を脳内のフォルダに整理しながら、満足げに微笑んだ。
物理学者として、そして異世界に転生した孤独な魂として。アリス・ベレニケの冷徹な知性に、「誰かと分かち合う」という新たな変数が加わった瞬間だった。




