番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑⑦
レオナルドが執務中に魔力視認を使うようになってから、数日が過ぎた。
書類へ目を通す。
署名する。
次の書類を手に取る。
そこまでは、いつもと変わらない。
しかし、仕事の合間に突然手を止め、目元へ魔力を集中させることがあった。
そして、自分の袖や胸元を見下ろし、僅かに口元を緩める。
初めのうち、王太子は何も言わなかった。
仕事に支障が出ているわけではない。
新たに習得した魔法を確認しているのだろうと考えていた。
だが、一日に何度も同じ行動を繰り返している。
しかも、そのたびに嬉しそうな顔をする。
とうとう王太子は、手にしていた書類を机へ置いた。
「レオナルド」
「はい、殿下」
「先ほどから、何をしている?」
「何と申しますと?」
「目元へ魔力を集め、自分の袖を見ているだろう」
レオナルドの動きが止まった。
「新しい術式の確認でございます」
「何の術式だ?」
「魔力の状態を確認するものでして……」
「それは見れば分かる。何を確認しているのかと聞いている」
レオナルドは答えられなかった。
王太子の視線が細くなる。
「最近、女性だけでなく騎士たちまで、急に物理学講習へ殺到するようになった」
「よい傾向でございますね」
「私も、そう思っていた」
王太子は、机の上に置かれた報告書を指先で叩いた。
「だが、その理由を尋ねても、お前は『生活へ直結する実用性が認識されたため』としか報告しない」
「間違った報告ではございません」
「では、正確な報告でもないのだな?」
逃げ道が塞がれた。
レオナルドは静かに息を吐いた。
「……どこから、ご説明すればよろしいでしょうか」
「初めから、全て話せ」
王太子の命令に、レオナルドは覚悟を決めた。
◇
初めに説明したのは、女性たちへ物理学が広まった経緯だった。
女性近衛騎士と町を歩いて調査していたため、自分に浮気の噂が立ったこと。
その噂を聞いた婚約者が王宮を訪れ、女性近衛騎士と一緒にいる場面を目撃してしまったこと。
泣いていた婚約者を、偶然通りかかったアリスとセドリックが見つけたこと。
そして、浮気を確かめるために、婚約者が物理学を学んで魔力視認を習得したこと。
「魔力視認で、浮気の確認……」
「密接に触れ合えば、相手の魔力が身体や衣服へ移ります。魔力の波長と干渉を理解すれば、それを見分けられるそうです」
王太子の表情が固まった。
「まさか、それが女性たちへ物理学が広まった理由か?」
「婚約者がお茶会で魔力視認について説明したところ、翌日から女性たちが講習へ殺到したそうです」
王太子は額へ手を当てた。
これまで王太子は、女性へ物理学を広めるため、様々な施策を打ち出してきた。
女性向けの教本。
生活へ物理学を取り入れる実演。
宝飾品や衣服へ応用する講習。
どれも、大きな成果にはつながらなかった。
それが、浮気を見破れると知った途端、女性たちは自ら物理学を学び始めたのである。
「では、騎士たちは?」
レオナルドは、さらに表情を曇らせた。
「食堂で、セドリック殿から薄型魔力壁の話を聞きました」
「薄型魔力壁?」
「身体の周囲へ薄い境界を作り、他人の魔力が付着することを防ぐ技術です」
「それを聞いた騎士たちが、講習へ殺到したのか?」
「はい」
「なぜだ?」
レオナルドは目を伏せた。
「他人の魔力を……残したくなかったのではないかと」
「……なるほど」
王太子は、それ以上の説明を求めなかった。
「だが、申込者には、愛妻家として知られる者も多いと聞いた」
「そちらには、別の理由がございます」
「まだあるのか」
「マクシミリアン殿が、リリィ嬢の魔力を全身へ付着させた状態で食堂へ来ました」
「何があった?」
「虫に驚いたリリィ嬢を抱きかかえたところ、腕の中で風魔法を使われ、少し吹き飛ばされたそうです」
王太子は黙った。
「密着した状態で魔法を発動したため、リリィ嬢の魔力が、マクシミリアン殿の全身へ強く残っておりました。それを聞いた者たちが、愛する者の魔力を自分へ残したいと考えたようで……」
執務室は静まり返った。
やがて、王太子が指を一本ずつ立てる。
「浮気を見破りたい女性」
二本目。
「他人の魔力を残したくない騎士」
三本目。
「愛する者の魔力を身体へ残したい者たち」
王太子は三本の指を見つめた。
「我が国の物理学は、この三つによって普及したのか?」
「結果だけを見れば、そのとおりでございます」
「私が考えた施策は、何だったのだろうな」
「殿下が物理学を学べる環境を整えたからこそ、今回の普及につながったのです」
レオナルドは必死に慰めた。
王太子は納得していない様子だったが、追及を続けることはしなかった。
代わりに、先ほどから気になっていたことを尋ねる。
「それで、お前が見ていたものは何だ?」
「それは……」
「まだ隠すのか?」
レオナルドは諦め、自分の胸元を指し示した。
「婚約者の魔力です」
再び沈黙が落ちた。
「お前も、マクシミリアンと同じことをしたのか?」
「婚約者を抱きしめた状態で、小さな光魔法を使ってもらいました」
「それを、執務中に何度も見ていたのか?」
「……はい」
王太子は目を閉じた。
レオナルドは非常に優秀な側近である。
その彼が、仕事の合間に婚約者の魔力を眺めて喜んでいた。
「私にも、その魔力視認を教えろ」
「よろしいのですか?」
「普及政策の責任者として、どのような技術か確認する必要がある」
王太子は、あくまで仕事であることを強調した。
既に物理学の基礎を身につけているため、習得に時間はかからなかった。
レオナルドの説明に従い、目へ流す魔力を調整する。
魔力を単なる光ではなく、波長の異なる揺らぎとして捉える。
やがて、執務室の景色へ色とりどりの魔力が重なった。
王太子は、初めに自分の手を見た。
書類や机から移った弱い魔力が、僅かに残っている。
続いて、レオナルドへ視線を向ける。
淡い金色をした、レオナルド自身の魔力。
そして、その上を覆うように、別の柔らかな光が胸元から両腕へ広がっていた。
絡みついてはいない。
しかし、想像していた以上に濃い。
「……べったりだな」
「はい」
「これが、婚約者の魔力か」
「はい」
レオナルドは、どこか誇らしげだった。
「お前、嬉しそうだな」
「そのように見えますか?」
「見える」
その時、執務室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、書類の束を抱えたセドリックだった。
「カイル殿下から、こちらの決裁をお願いするよう申しつかりました」
「ああ。そこへ置いてくれ」
王太子は、セドリックから書類を受け取った。
内容を確認するには、少し時間がかかりそうだった。
「決裁が済むまで、そこで待て」
「承知いたしました」
セドリックは、執務机から少し離れた場所へ立った。
王太子が書類へ目を通している間、セドリックは静かに待っている。
やがて、彼の目元へ僅かな魔力が集まった。
王太子は顔を上げた。
セドリックは自分の腕へ視線を落とし、柔らかく微笑んでいる。
先ほどのレオナルドと、全く同じ表情だった。
「……セドリック」
「はい、殿下」
「今、何を見ていた?」
「アリスの魔力です」
迷うことのない即答だった。
王太子は魔力視認を展開したまま、セドリックを見る。
彼の胸元と両腕には、青白い魔力が広く付着していた。
レオナルドに残る婚約者の魔力と同じく、セドリック本人の魔力を覆うほど濃い。
「お前も、べったりだな」
「はい」
セドリックは満足そうに頷いた。
「アリスにも、腕の中で魔法を使ってもらったのか?」
「残留する魔力量が、接触面積と魔力の放出量によってどの程度変化するのか、検証いたしました」
「検証?」
「はい。条件を変えながら、何度か小さな魔法を使ってもらいました」
さすがにアリスである。
婚約者の魔力を残すという話まで、実験へ変えてしまったらしい。
「その結果が、これか」
「想定より多く残りました」
セドリックは、再び自分の腕へ付着した魔力を見つめ、僅かに微笑んだ。
その横では、レオナルドも婚約者の魔力を確かめている。
王太子の視界には、婚約者の魔力をべったりと付着させた二人が並んでいた。
「お前たちは、執務室を何だと思っている?」
「「仕事をする場所です」」
レオナルドとセドリックの声が重なった。
「では、仕事中に婚約者の魔力を眺めるな!」
二人は、静かに目元の魔力を収めた。
王太子は深く息を吐き、セドリックが持ってきた書類へ決裁を下した。
「公式の報告書には、魔力残滓の視認による犯罪捜査と、薄型魔力壁による魔力干渉の防止と記載しろ」
「女性と騎士へ普及した、本当の経緯は?」
レオナルドが尋ねる。
「記載するな」
王太子は即答した。
「ただし、内部記録には残しておけ。人は、自分に関係のない知識には興味を示さない。だが、明確な利益があれば、どれほど難しい内容でも学ぼうとする。その事実自体は、今後の政策に役立つ」
普及した理由には、思うところがある。
それでも、女性や騎士たちが物理学を学び始めたことは事実だった。
魔力視認も、使い方次第では捜査や警備へ役立つ。
王太子は、物理学が予想もしなかった形で人々の暮らしへ浸透し始めたことを認めるしかなかった。
それ以降。
執務中に婚約者の魔力を確認するレオナルドとセドリックへ、王太子の冷たい視線が向けられるようになった。
もっとも、その王太子自身も、書類へ残された魔力から作成者や運搬した者を確認するという名目で、仕事の合間に時折魔力視認を展開していた。




