番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑⑤
女性たちの間に、物理学は急速に浸透していった。
魔力視認を習得したいという明確な目的を持った女性たちは、難しい数式にも耐え、波長や干渉について熱心に学んでいる。
一方、騎士たちへの普及は、相変わらず進んでいなかった。
女性たちの間で評判になった魔力視認も、騎士にとっては大きな魅力にならない。
「他人の魔力を見分けられるようになれば、不審者の追跡や証拠の確認にも使える」
レオナルドは、そう説明して回った。
だが、返ってくるのは似たような答えばかりだった。
「追跡なら、使い魔に尾行させます」
「証拠の確認は、捜査を担当する騎士の仕事です」
「物理学を覚える時間があるなら、剣を振ります」
決して間違ってはいない。
魔力視認は有用だが、全ての騎士が習得しなければならない技術ではなかった。
王太子は、騎士向けの実演講習や、戦闘へ物理学を取り入れた訓練まで行わせた。
それでも受講者は、元から物理学に興味を持っていた者に限られている。
レオナルドは再び、騎士たちへ物理学を浸透させる突破口を探す日々を送ることになった。
◇
ある日の昼。
執務室を出たレオナルドは、王宮の食堂へ向かう途中でセドリックと出会った。
「セドリック殿も昼食ですか?」
「ええ。今日はアリスと休憩時間がずれてしまいましたので」
普段なら、アリスと一緒に昼食を取っている。
しかしこの日は、アリスが実証実験へ立ち会っており、戻る時刻が遅くなる予定だった。
「それなら、一緒にどうです?」
「ええ、喜んで」
二人は食堂へ入り、料理を受け取って空いている席へ着いた。
王宮の食堂は、騎士や文官で賑わっている。
近くの席には、午後の訓練を控えた騎士たちが集まっていた。
食事を始めてしばらくすると、レオナルドが改めてセドリックへ顔を向けた。
「そういえば、サラの件では、アリス嬢とセドリック殿に大変お世話になりました」
「私は、魔力視認について説明しただけです。教えたのは、ほとんどアリスですよ」
「それでも、二人が声をかけてくれなければ、今頃どうなっていたか分かりません。改めて、ありがとうございます」
レオナルドは頭を下げた。
浮気の噂が広まっていたことには落ち込んだが、サラとの誤解は解けた。
以前より互いに事情を話すようになり、二人の関係はむしろ深まっている。
「しかし、魔力視認は凄いですね」
レオナルドは苦笑した。
「私の婚約者はいざ知らず、アリス嬢は物理学を極めています。セドリック殿に浮気疑惑でも浮上すれば、魔力視認だけでは済まないのではありませんか?」
調査されるのは、付着した魔力だけではないだろう。
行動した時刻。
立ち寄った場所。
移動に要した時間。
衣服へ付着した細かな物質。
アリスであれば、物理学を用いて全てを調べ上げかねない。
だが、セドリックは全く動じなかった。
「大丈夫です」
「随分と自信がありますね」
「他人の魔力が移らないよう、普段から身体の周囲へ薄い魔力壁を展開していますから」
レオナルドの手が止まった。
「魔力壁?」
「他人の魔力と自分の魔力が直接触れないよう、間に薄い境界を作っているのです。通常の防御魔法ほど強くありませんが、魔力が身体や衣服へ定着するのを防ぐ程度なら十分です」
「へえ。そのようなこともできるのですね」
ガタッ!
隣の席から、大きな音がした。
騎士の一人が勢いよく立ち上がり、椅子が後ろへ倒れかけている。
騎士は構うことなく、セドリックの側まで駆け寄ってきた。
「物理学を学べば、他人の魔力が移らないようにできるのですか!」
食堂中に響くほどの声だった。
セドリックは僅かに身を引く。
「え、ええ。魔力の反発と境界面について理解すれば、可能ですが」
「本当ですね?」
「はい」
「ありがとうございます!」
騎士は深々と頭を下げると、食べかけの昼食を残したまま食堂を飛び出していった。
レオナルドとセドリックは、騎士が消えた扉を見つめた。
「……なぜ、あれほど急いで?」
「さあ」
ガタガタガタッ!
今度は、周囲にいた騎士たちが一斉に立ち上がった。
互いに顔を見合わせた後、先ほどの騎士を追うように食堂を出ていく。
「受付が閉まる前に急げ!」
「午後の訓練まで時間がないぞ!」
「俺の分も申込書を確保してくれ!」
「自分で来い!」
騎士たちの声が、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
その直後、昼食を載せたトレイを持ったマクシミリアンがやってきた。
空いた席を見つけ、二人の前へ腰を下ろす。
「先輩方は、何をあれほど急いでいたのでしょう?」
「さあ。ただ、物理学を学べば、他人の魔力が移るのを防げると聞いて出ていきました」
レオナルドが答える。
「他人の魔力?」
マクシミリアンが首を傾げた。
「何の話です?」
「魔力視認です」
「魔力視認?」
セドリックは、他人から移った魔力を波長の違いによって見分けられることを説明した。
マクシミリアンは食事を始めることも忘れ、真剣な顔で話を聞いている。
「私にもできますか?」
「物理学を身につけていますから、見方を覚えれば可能でしょう」
マクシミリアンは、過去、物理学を強制的に学ばされ、代替魔道具の開発へも参加してきた。
セドリックの指示に従い、目へ流す魔力を調整していく。
光として捉えるのではなく、魔力の波長と重なりへ意識を向ける。
「おお……」
マクシミリアンが、驚きの声を漏らした。
「見えます。周囲の人々を包んでいる魔力が見えます!」
「私にも教えてください」
興味を持ったレオナルドも、同じように魔力視認を試す。
しばらくすると、食堂の風景へ色とりどりの魔力が重なって見え始めた。
レオナルドは、自分の身体を見下ろした。
薄い魔力壁を試しに展開したため、周囲から流れてくる魔力は身体へ触れる前に逸れていく。
その内側には、以前婚約者と会った時に移ったと思われる魔力が、淡く残っていた。
「これが、彼女の魔力ですか……」
強く絡みついてはいない。
周囲の既婚者や婚約者がいる者たちにも、同じ程度の魔力が付着していた。
次にセドリックを見る。
彼の身体には、本人以外の魔力がほとんど見当たらない。
普段から魔力壁を展開しているという話は、本当らしい。
「それで、他人の魔力を防いでいたのですね」
「はい」
セドリックは満足そうに頷いた。
しかし、その隣でマクシミリアンは、自分の身体を見下ろしたまま動かなくなっていた。
彼の全身には、柔らかな緑色の魔力がべったりと付着していたのである。
絡みついているわけではない。
だが、周囲の者たちとは比べものにならないほど濃い。
「これは……リリィの魔力です!」
マクシミリアンの顔が、喜びに輝いた。




