番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑④
女性向け物理学講習の受講者は、その後も増え続けた。
初回の講習へ参加した貴族女性が、自らの友人へ魔力視認の話を伝える。
話を聞いた友人が、さらに別の知人へ伝える。
王都で始まった流れは、やがて地方の貴族家にも広がっていった。
王立研究所には、講習会の開催を求める手紙が毎日のように届いた。
急遽、講師が増員され、初級者向けの教本も増刷される。
これまで物理学へ興味を示さなかった女性たちが、数式の意味を尋ね、魔力の波長を測り、干渉について真剣に議論するようになっていた。
その変化を最も喜んだのは、王太子だった。
そして、最も困惑したのはレオナルドである。
「女性向け講習の受講希望者は、先月の十倍を超えました」
配下から報告を受けたレオナルドは、書類を何度も見直した。
記載に誤りはない。
あれほど苦戦していた女性への物理学普及が、突然進み始めている。
「新たに実施した施策は、何だった?」
「特には。これまでと同じ内容です」
「広報の方法を変えたのか?」
「いいえ。ただ、魔力視認を習得できるという話が、貴族女性の間で広まっているようです」
「魔力視認……?」
レオナルドには、なぜ魔力視認がこれほど注目されているのか分からなかった。
しかし、結果として物理学の普及は進んでいる。
女性近衛騎士と行っていた聞き取り調査も、一度区切りをつけることになった。
ようやく時間に余裕が生まれ、延期を重ねていた婚約者とのお茶会も再開できる。
◇
久しぶりのお茶会の日。
レオナルドは予定の時刻より早く、庭園の東屋へ到着していた。
テーブルの上には、サラが好む菓子と紅茶が用意されている。
彼女が現れると、レオナルドは立ち上がって迎えた。
「長い間、会う時間を作れず、申し訳なかった」
「本当に、お忙しかったのですね」
「ああ。物理学を女性へ広めるための調査が、思っていた以上に難航していたんだ」
二人は席へ着き、これまで会えなかった間の出来事を話し始めた。
レオナルドは、女性近衛騎士に協力を求めた理由を説明した。
女性が何に興味を持つのかを調べるため、一緒に町を歩いたこと。
食事をしながら意見をまとめたこと。
宝飾店の品に物理学的な仕組みを見いだせないか、調査したこと。
サラは黙って話を聞いていた。
「やはり、全てお仕事だったのですね」
「もちろんだ。それ以外に、何があるんだ?」
彼女は僅かに迷った後、社交界で広まっていた噂について話した。
レオナルドの表情から、徐々に血の気が引いていく。
「私に……恋人ができたという噂が?」
「はい」
「君も、その噂を聞いていたのか」
「直接教えてくださる方が、大勢いらっしゃいましたわ」
多くは親切からではない。
サラが傷つく姿を見ようと、面白半分に告げた者たちである。
レオナルドは額へ手を当てた。
「何ということだ……」
女性への物理学普及しか考えておらず、自分たちが周囲からどのように見えるかなど、全く気にしていなかった。
何より、忙しいという理由でサラとの約束を延期しながら、別の女性と何度も町を歩いていたのである。
誤解されても仕方のない行動だった。
「本当に、すまない。君へ先に説明しておくべきだった」
「わたくしも、初めからお尋ねすればよかったのです。ですが、お二人が楽しそうに歩いているところを見てしまい……声をかけることができませんでした」
「見ていたのか?」
「はい。あの日は、随分と泣きましたわ」
レオナルドは深く肩を落とした。
「申し訳ない」
「もう、疑ってはおりません」
「私の説明を信じてくれるのか?」
「それもございますけれど、自分の目で確認いたしましたもの」
「自分の目で?」
サラは、魔力視認を習得した経緯を説明した。
中庭で泣いているところを、アリスとセドリックに見つけられたこと。
騎士隊長へ複数の女性の魔力が絡みついていたという話を聞いたこと。
浮気を見破るため、必死に物理学を学んだこと。
そして、王宮を何度も訪れ、陰からレオナルドの魔力を確認していたこと。
「……私を観察していたのか?」
「はい」
「何度も?」
「念のために」
「声をかけてくれればよかったのでは……」
「先に声をかけてしまえば、正確に確認できないかもしれませんでしょう?」
サラは穏やかに微笑んだ。
「女性近衛騎士様の魔力も覚えました。ですが、レオナルド様には一度も、あの方の魔力が絡みついておりませんでしたわ」
「それで、浮気ではないと?」
「ええ。今では、誰に何を言われても不安にはなりません」
信じてもらえたことは嬉しい。
しかし、自分の知らないところで何度も魔力を観察されていたと知り、レオナルドは複雑な表情になった。
「それにしても、魔力視認を習得するために物理学を学ぶとは……」
そこで、レオナルドの動きが止まった。
「まさか」
最近になって、女性向け物理学講習へ希望者が殺到している。
サラが魔力視認を習得した時期とも一致していた。
「君は、その話を他の誰かにしたのか?」
「先日のお茶会で、少しだけ」
「どのような話を?」
「レオナルド様の浮気を疑われましたので、魔力が絡みついていないから浮気ではないと説明いたしました」
「それで?」
「魔力視認を使えば、密接に触れ合った相手の魔力を見分けられると申し上げました。そうしましたら、皆様が物理学へ興味を持たれたのです」
レオナルドは言葉を失った。
しかも、自分の浮気疑惑がきっかけである。
「レオナルド様?」
「いや……何でもない」
女性へ物理学を浸透させる突破口は、ようやく見つかった。
だが、その経緯を王太子へ報告すべきかどうか、レオナルドには判断できなかった。
◇
数日後。
レオナルドは王太子の執務室へ呼ばれた。
「よくやった、レオナルド!」
部屋へ入るなり、王太子が喜びに満ちた声を上げた。
机の上には、女性向け物理学講習の受講者数をまとめた報告書が置かれている。
「これほど短期間で成果が出るとは思わなかった。貴族女性だけでなく、商家や職人の家からも問い合わせが届いているそうだ」
「はい……」
「これまでの調査が実を結んだのだな」
「実を結んだと申しますか……予想していなかったところから芽が出たと申しますか……」
「何が突破口になった?」
レオナルドは答えに詰まった。
王太子は、純粋な期待を込めて彼を見ている。
ここで正直に報告すべきなのだろう。
女性たちは、物理学を学べば婚約者や夫の浮気を見破れると知り、講習へ殺到しました。
その発端は、私に浮気の噂が立ったことです。
そのような報告を、王太子へ提出してよいものだろうか。
「女性たちが……物理学によって得られる利益を、具体的に理解したためかと」
レオナルドは、慎重に言葉を選んだ。
「なるほど。生活に直結する実用性を示したわけだな」
「おおむね、そのようなところです」
「具体的には、何ができるのだ?」
「それは……」
レオナルドの視線が泳いだ。
「魔力の波長を識別し、確認できます」
「それが女性たちの生活に、どのように役立つ?」
王太子は真剣に尋ねている。
誤魔化すことは難しい。
「人間関係における……不安の解消に役立つようです」
「随分と曖昧だな」
「個人の名誉に深く関わるため、公式な説明には不向きかと存じます」
「だが、これほど効果があったのだ。今後の普及策へ取り入れるためにも、詳細な報告が必要だろう」
正論だった。
王太子は満足そうに報告書を見下ろす。
「ようやく女性へ物理学を広める道が開けた。次は、同じ方法を騎士たちにも応用できるか検討しよう」
「騎士にも、でございますか」
「ああ。まずは今回の成功理由を詳細にまとめてくれ」
「……承知いたしました」
レオナルドは深々と頭を下げた。
しかし、顔を上げることができない。
王国の女性たちに物理学が広まった理由が、自分に浮気の噂が立ったためだったなどとは、喜ぶ王太子を前に、どうしても言い出せなかった。




