番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑③
レオナルドの婚約者サラに対する物理学講義は、翌日から始まった。
初めに学ぶのは、波と振動。
続いて、魔力の属性による波長の違い。
複数の魔力が重なった時に生じる干渉と、その見分け方。
さらに、物や衣服へ残された魔力残滓が、時間とともにどのように減衰するのか。
内容は、決して易しくなかった。
「こちらの式から、残留している魔力の強さを求めますわ」
アリスが黒板へ数式を書く。
サラは、紙へ同じ式を書き写した後、動きを止めた。
「……アリス様」
「何でしょう?」
「この文字は、何を表しているのでしょうか」
「波長ですわ」
「では、こちらは?」
「振幅です」
「その隣の数字は?」
「時間の経過による減衰率ですわね」
令嬢は、黒板を見上げたまま黙り込んだ。
これまで学んできた歴史や礼法とは、全く異なる。
数式は見慣れない記号ばかりで、説明を聞いても、すぐに次の疑問が生まれた。
それでも、彼女は諦めなかった。
「もう一度、初めからお願いいたします」
分からなければ尋ねる。
間違えれば、計算をやり直す。
自邸へ帰った後も復習を続け、翌日には必ず課題を提出した。
「素晴らしい熱意ですわ!」
アリスは感激していた。
「これほど真剣に物理学へ向き合ってくださる方は、なかなかいらっしゃいませんもの!」
「目的が明確だからでしょう」
セドリックが冷静に答え、サラも続く。
「レオナルド様の浮気を確認するためですから」
「物理学は、もっと純粋な知的好奇心によって学ばれるべきではありませんの?」
「学ぶ動機は、人それぞれです」
サラが、真剣な顔で頷く。
「浮気を見破ることができた後は、純粋な知的好奇心も大切にいたしますわ」
「先に浮気なのですね……」
アリスは複雑そうな表情を浮かべた。
◇
数週間が過ぎた。
サラは、魔力を単なる光としてではなく、細かな揺らぎとして捉えられるようになっていた。
初めは、人によって魔力の色が違うことしか分からなかった。
やがて、同じ属性を持つ者同士でも、僅かに波長が異なることへ気づく。
さらに訓練を重ねると、一人の身体へ別人の魔力が付着している状態も識別できるようになった。
「見えましたわ!」
練習用の布を観察したサラが声を上げる。
その布には、事前に三人の研究員が順番に魔力を残していた。
「こちらが水属性。こちらは風属性です。そして、この細く乱れた波が、最後に触れた方の魔力ですわ」
セドリックが記録を確認する。
「全て合っています」
「では……」
彼女の表情が引き締まった。
「レオナルド様の魔力も、確認できますのね」
「可能だと思いますわ」
アリスが答える。
「ですが、短時間の接触によって移った僅かな魔力まで、浮気の証拠と考えてはいけません。握手や挨拶でも、一時的に魔力が残ることはありますもの」
「どのように見分けるのですか?」
「親密な接触によって移った魔力は、本人の魔力と深く絡み、簡単には消えません。衣服の表面だけでなく、身体を覆う魔力へ強い干渉縞が現れます」
騎士隊長に残されていたものは、まさにその状態だった。
繊維の奥まで入り込み、複数の波長が強く絡み合っていた。
「一度だけで判断せず、日を変えて何度か確認することも大切です」
「分かりましたわ」
こうして、サラは再び王宮を訪れた。
◇
最初に確認した時、レオナルドは一人で回廊を歩いていた。
柱の陰から魔力視認を行う。
彼の身体を覆う魔力は、淡い金色の波となって規則正しく揺れていた。
書類や机から移った、ごく弱い魔力は残っている。
しかし、他人の魔力が深く絡みついた痕跡はない。
二度目は、複数の文官と打ち合わせをしている時だった。
その日も、レオナルドの魔力に異常はなかった。
三度目。
とうとう、噂の女性近衛騎士と一緒にいる姿を見つけた。
令嬢は物陰から、二人の魔力を見つめた。
女性近衛騎士の魔力は、青緑色の鋭い波長を持っている。
レオナルドの淡い金色とは、明確に異なる。
二人は資料を見ながら言葉を交わし、時折笑っていた。
見た目だけなら、以前と同じだった。
だが、魔力視認で見れば、二人の間には何もない。
魔力は互いに独立し、触れ合うことも、絡み合うこともなく揺れている。
その後、女性近衛騎士と別れたレオナルドも確認した。
青緑色の魔力は、一筋も残っていなかった。
念のため、彼女はさらに何度か王宮を訪れた。
結果は、いつも同じだった。
レオナルドの身体にも衣服にも、女性近衛騎士の魔力が強く残っていたことは一度もない。
(浮気ではありませんでしたわ)
ようやく、胸の奥に残っていた不安が消えた。
二人が何のために行動しているのか、その全てを知っているわけではない。
それでも、噂されているような関係ではないことだけは、自分の目で確かめられた。
レオナルドを信じたいという願いではない。
観測によって得られた、明確な根拠だった。
◇
それから数日後。
貴族令嬢たちのお茶会で、レオナルドの噂が再び話題に上った。
「最近も、レオナルド様は女性近衛騎士と行動していらっしゃるそうですわね」
「お忙しいと言いながら、随分と楽しそうに町を歩いていたとか」
以前なら、その言葉を聞くだけで胸が痛んだ。
だが、今のサラは穏やかな笑みを浮かべたまま、紅茶へ口をつけた。
期待していた反応が返ってこなかったためか、一人の令嬢が苛立ったように扇を閉じる。
「婚約者が浮気をしているというのに、よく笑っていられますこと」
その場が静まり返った。
あまりにも直接的な言葉だった。
しかし、サラは表情を変えなかった。
「レオナルド様は、浮気などしておりませんわ」
「まあ。何を根拠に、そのようなことを?」
「根拠?ございますわよ」
彼女は、余裕のある笑みを浮かべた。
「レオナルド様の魔力には、他の女性の魔力が絡みついておりませんもの」
「……は?」
「魔力が、絡みつく?」
令嬢たちが顔を見合わせる。
「ええ。男女が密接に触れ合えば、互いの魔力が移り、本人の魔力へ絡みつきます。短い挨拶で残るものとは異なり、簡単には消えないそうですわ」
「ですが、魔力など目で見えませんでしょう?」
「通常の見方では、見えませんわね」
サラは、少しだけ誇らしげに答えた。
「ですが、魔力視認を使えば見えますわ」
「魔力視認?」
「何ですの、それは?」
「どうすれば使えるようになりますの?」
先ほどまで嫌味を口にしていた令嬢まで、身を乗り出している。
「物理学を学び、魔力の波長と干渉を理解すれば、訓練によって習得できますわ」
「物理学で、婚約者の浮気が分かるのですか?」
「夫に他の女性の魔力が残っているとかも?」
「その講習は、どこで受けられますの?」
質問が一斉に飛び交い始めた。
お茶会が終わる頃には、物理学講習の日程と申込先が、出席者全員の手帳へ書き込まれていた。
そして翌日。
女性向け物理学講習の受付には、朝早くから大勢の貴族女性が押し寄せた。
「受講を希望いたします!」
「次の講習は、いつですの?」
「夫も一緒に連れてくる必要はありますか?」
受付を担当していた研究員は、途切れることのない列を呆然と眺めていた。
用意されていた教室では到底足りず、急遽、王宮内の広間を借りることになった。
王太子がどれほど施策を打ち出しても動かなかった貴族女性たちは、婚約者や夫の浮気を見破れると聞いた翌日、自ら物理学へ殺到したのである。




