番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑②
レオナルドと女性近衛騎士の姿が回廊の向こうへ消えた後も、サラは、その場から動くことができなかった。
追いかけて、声をかければよかった。
あの女性は誰なのか。
何を話していたのか。
噂されているような関係なのか。
本人へ尋ねるために、王宮まで来たはずだった。
それなのに、楽しそうに話す二人を目にした瞬間、足が動かなくなってしまった。
最近届くようになった、短い手紙。
仕事が忙しいという理由で、何度も延期されたお茶会。
それでも、レオナルドを疑ってはいけないと思っていた。
彼は王太子の側近であり、代替魔道具の普及や物理学の教育にも関わっている。
以前より忙しくなったことも知っていた。
だから、会えないのは仕方がない。
手紙が短いのも、仕事に追われているから。
そう、自分へ言い聞かせてきた。
だが、先ほどのレオナルドは、疲れているようには見えなかった。
女性近衛騎士と肩を並べ、何かを話しながら笑っていた。
自分とのお茶会を断った日も、あの女性とは会っていたのだろうか。
そんな考えが一度浮かぶと、次々に悪い想像が押し寄せてくる。
視界が滲み、頬を涙が伝った。
◇
その頃、王立研究所で午前の仕事を終えたアリスとセドリックは、短い休憩時間を利用して中庭へ向かっていた。
研究所の食堂を使えば早いのだが、二人で落ち着いて話すには人が多すぎる。
そこで、天気のよい日には軽食を持ち、中庭の東屋で過ごすことが増えていた。
名目は休憩。
実際には、婚約者同士の短い逢瀬である。
「今日は、何も調べずに食事をしてくださいね」
セドリックが念を押す。
「何も調べませんわ。わたくしも、休憩と研究の区別くらいつきますもの」
「昨日は昼食を食べながら、スープの冷める速さを測っていましたが」
「同じ器なのに冷め方が異なっていたのですわ。気になって当然ではありませんか」
「今日は、気になっても我慢してください」
アリスが不満そうに口を尖らせた、その時だった。
二人は、回廊の側で立ち尽くしている令嬢に気づいた。
顔を伏せているが、その横顔には見覚えがある。
以前、レオナルドが主宰したお茶会で紹介された、彼の婚約者だった。
「まあ……」
アリスはすぐに歩調を速めた。
「あの…、レオナルド様の婚約者のサラ様ではありませんか?」
声をかけられた令嬢が、驚いたように顔を上げる。
慌てて涙を拭おうとしたが、次の涙が頬を伝った。
「アリス様……セドリック様……」
「どうなさいましたの?」
アリスが彼女の側へ駆け寄る。
セドリックも周囲を見回したが、彼女を泣かせたと思われる人物は見当たらない。
「どこかお怪我を?」
「いいえ。怪我では、ございません」
「では、体調が悪いのでしょうか。どこかへお座りになった方が――」
「違うのです」
彼女は何かを堪えるように、両手を強く握った。
「わたくし……レオナルド様に、他に想う方ができたという噂を聞きましたの」
アリスとセドリックが、同時に目を瞬かせる。
「レオナルド殿に?」
セドリックが聞き返した。
「はい。女性近衛騎士と、何度も二人きりで町を歩いていると。二人で食事をしたり、宝飾店へ入ったりする姿も見た者がいるそうです」
その話には、アリスたちも覚えがあった。
女性へ物理学を浸透させる方法を探すため、レオナルドが女性近衛騎士へ協力を求めていることは知っている。
町へ調査に出ていることも、その結果を王太子へ報告していることも聞いていた。
しかし、それが社交界で別の意味に受け取られているとは、二人とも考えたことがなかった。
「お二人が町を調べていらっしゃるのは、王太子殿下から命じられたお仕事ですわ」
アリスが説明する。
「女性が物理学へ興味を持つ方法を探しているのです。宝飾店へ向かわれたのも、その調査ではないでしょうか」
「わたくしも、そう信じたかったのです」
サラの声が震えた。
「ですから、噂だけを信じてはいけないと思い、レオナルド様へ直接お尋ねするために参りました。ですが……先ほど、見てしまったのです」
「何をですか?」
「あの方と、楽しそうに笑いながら歩いているところを」
再び、大粒の涙が零れ落ちた。
「わたくしとのお茶会には、仕事が忙しいからといらっしゃらないのに……」
アリスは言葉を失った。
レオナルドが女性近衛騎士と行動している理由は知っている。
だが、婚約者へ事情を知らせず、何度も約束を延期していたのであれば、彼女が不安になるのも当然だった。
「まさか、レオナルド様に限って、そのようなことは……」
「ですが……ううっ……」
「事情を確かめる前に、決めつけてはいけませんわ。わたくしたちも、レオナルド様がそのようなことをなさる方だとは思えませんもの」
「でも、もし本当に……」
アリスは彼女の背を優しく撫でた。
「魔力視認をすれば、分かるのですが……」
セドリックが小さく呟いた。
アリスが振り返る。
「魔力視認で、浮気が分かりますの?」
「分かる可能性は高いでしょう」
「どうしてですか?」
セドリックは、アリスの問いに僅かに眉を寄せた。
「アリス。以前、騎士隊長の浮気を見破ったではありませんか」
「わたくしが?」
「覚えていないのですか?」
「そのようなことをした覚えは――」
そこまで言って、アリスは考え込んだ。
騎士隊長。
魔力視認。
制服に残っていた干渉縞。
繊維の奥深くへ絡みつき、強く定着していた複数の魔力残滓。
「……ありましたわね」
アリスの表情が、少しずつ引きつった。
「あの時、隊長には複数のご婦人の魔力が絡みついていましたわ」
「ええ。通常の挨拶や会話だけで、あれほど強く残ることはありません」
「わたくし、事件に関係する重要な手がかりだとばかり考えておりましたけれど……」
「手がかりではありましたよ」
「ですが、あれは……そういうことだったのですね」
「そういうことです」
二人は、何とも言えない表情で見つめ合った。
「浮気を見破った……?」
震える声が聞こえ、二人は同時に振り返った。
先ほどまで泣いていたサラが、涙に濡れた目で二人を凝視していた。
「魔力視認とは、何なのですか?」
「あ……」
アリスは、自分たちが彼女の前で話していたことを思い出した。
サラはアリスへ詰め寄る。
「教えてくださいませ! その魔力視認というものを!」
先ほどまで悲しみに沈んでいた瞳に、強い光が戻っている。
セドリックは僅かに身を引きながら説明した。
「人の身体や衣服には、接触した相手の魔力が残ることがあります。短い挨拶程度ではすぐに消えますが、長く密接に触れ合えば、相手の魔力が強く移り、本人の魔力へ絡みつくのです」
「それを、見ることができるのですか?」
「波長の違いを識別できれば」
サラは、今度はアリスを見た。
「わたくしにもできますか?」
「簡単ではありませんわ。魔力を光や色として見るだけではなく、波長の違いや重なりによって生じる干渉を見分ける必要がございますもの」
「何を学べばよろしいのですか?」
「物理学の基礎を理解し、魔力を波として捉えることができれば、訓練次第では――」
「教えてください!」
サラが、アリスの両手を強く握った。
「その物理学を、わたくしに教えてくださいませ!」
あまりの勢いに、アリスは目を見開いた。
だが、次の瞬間には満面の笑みを浮かべる。
「ええ、もちろんですわ!」
物理学を学びたいと願う者を、アリスが断るはずもなかった。
「まずは、波と振動の基礎から始めましょう。魔力の属性による波長の違いも覚えていただきますわ」
「何でも覚えます!」
「数式も多いですわよ?」
「覚えます!」
「魔力の干渉を理解するには、計算も必要です」
「どれだけ難しくても、必ず覚えますわ!」
こうして、アリスとセドリックが楽しみにしていた二人きりの休憩時間は、魔力視認を習得するための最初の物理学講義へと姿を変えた。
セドリックは、手つかずの昼食を見下ろした。
またしても、アリスとの逢瀬は物理学に奪われたのである。




