番外編 広まらない物理学と広まる浮気疑惑①
現在、番外編を朝5時・午前11時の1日2話で予約投稿しています。
代替魔道具の開発に成功してから、王国は大きく変わり始めていた。
水量の豊富な河川や地下水の流れる場所には、水の魔石を作るための魔道具が設置された。
そこで作られた水の魔石は、水利の悪い土地へ運ばれ、人々の暮らしや農業を支えている。
火山地帯では、火山活動によって生じる余分な力を吸収する代替魔道具の設置が進められた。
それまで人々は、いつ起きるか分からない噴火を恐れ、祈るしかなかった。
だが現在は、装置の状態を人の手で調べ、必要な部品を交換し、生成された火の魔石を定期的に回収できる。
代替魔道具の導入を決める各地の為政者。
設置場所を調べる研究者。
製作と維持を担当する技術者。
彼らにとって、物理学は必要不可欠な知識となった。
講習会には各地から人が集まり、王立研究所が発行する物理学の教本も次々に増刷されている。
新たな魔道具を開発するため、物理学を専門に扱う研究室も設けられた。
行政や研究、技術に関わる者の間では、物理学を学ぶことは既に特別なことではなくなりつつあった。
しかし――。
王太子の執務机には、一向に改善しない数字を記した報告書が置かれていた。
「また変化なしか」
王太子が低い声で呟く。
向かいに立つレオナルドが答えた。
「全体の受講者数は増えています。ですが、女性と騎士の受講者については、ほとんど増えておりません」
物理学を学ぶ女性が、全くいないわけではない。
王立研究所や魔道具工房で働く女性の中には、必要に迫られて学び始め、そのまま研究の道へ進んだ者もいる。
だが、女性全体から見れば、未だに少数だった。
研究や技術の仕事に就いていない女性にとって、物理学を学ぶことで得られるものが分かりにくいのである。
通常の教科よりも難しく、計算も多い。
長い時間をかけて学んでも、自分の生活で使う機会がないと思われていた。
騎士たちも同じだった。
彼らが重視するのは、剣術、魔法、体力、部隊行動である。
物理学の講義を受ける時間があるなら、その分だけ訓練を増やした方が強くなれる。
そう考える者が多かった。
「初心者向けの教本は?」
「配布いたしました」
「公開講義は?」
「女性向け、騎士向けの講義をそれぞれ開催しました。しかし、一度参加しても、その後の講義まで続けて受ける者は僅かです」
「実演を増やした講習は?」
「受講中の反応は悪くありません。ただ、自分でも学びたいと考えるところまでは至っておりません」
王太子は、報告書を机へ置いた。
これまでにも、様々な施策を行ってきた。
数式を減らした入門書。
生活の中にある物理現象を紹介する公開講義。
騎士向けに、剣を振る際の力の伝わり方や、投擲物の軌道を扱う実演。
だが、どれも大きな成果にはつながっていない。
「必要性を感じている者は、既に自分から学び始めている」
王太子が言った。
「問題は、必要性を感じていない者だ。興味のない者へ、学べと命じるだけでは定着しない」
「はい」
「女性と騎士が、自分から物理学を学びたいと思う切り口を探せ」
王太子は、レオナルドをはじめとする側近たちを見渡した。
「教本を増やすだけでは意味がない。彼らが何に興味を持ち、何であれば学ぶ理由になるのか、実際に調べるのだ」
「承知いたしました」
こうして、物理学を普及させるための新たな調査が始まった。
◇
レオナルドが最初に協力を求めたのは、王宮に仕える女性近衛騎士だった。
女性であり、騎士でもある。
物理学が浸透していない二つの層について、率直な意見を聞くには最も適した相手だった。
「物理学の講義を受けたいと思うか?」
レオナルドが尋ねると、女性近衛騎士は少し考えた後、首を横へ振った。
「今のままなら、受けようとは思いません」
「理由を聞かせてほしい」
「必要性を感じないからです。剣を振る角度を計算すれば効率が良くなると言われても、長年の訓練で身につけた感覚の方が早いと思ってしまいます」
「では、実際に剣術が向上すると証明されれば?」
「興味は持つでしょう。しかし、難しい計算を覚えなければ使えないのであれば、訓練を選ぶ騎士の方が多いと思います」
レオナルドは、その答えを全て記録した。
続いて、女性向けに考案された講習内容を見せる。
料理に使われる熱。
布や衣服へ加わる力。
馬車の揺れ。
宝石が光を反射する仕組み。
身近な事柄から物理学へ興味を持ってもらうための内容だった。
「こちらはどうだ?」
「内容としては面白いと思います。ただ、面白い話を聞いたところで、さらに難しい計算まで学ぼうと思うかは別です」
「やはり、学ぶことで得られる明確な利点が必要か」
「そう思います」
女性近衛騎士は、遠慮なく意見を述べた。
表現が分かりにくければ、分かりにくいと言う。
興味を持てなければ、持てないと答える。
レオナルドにとって、その率直さは非常にありがたかった。
彼は何度も彼女のもとを訪れ、新しく考案された講習内容や宣伝方法について意見を求めた。
だが、王太子へ報告できるほどの成果は、なかなか得られなかった。
◇
やがて二人は、王宮の中で話し合うだけでは足りないと考えるようになった。
実際に女性たちが何へ関心を持っているのか。
何であれば、物理学へつながる可能性があるのか。
それを調べるため、共に王都の町を歩くようになった。
衣服を扱う店。
化粧品を扱う店。
菓子店。
生活用品を扱う市場。
店に並ぶ品物や、女性客が足を止める場所を観察し、その中に物理学へ結びつくものがないかを探した。
昼をまたぐ調査では、二人で食事を取りながら意見をまとめることもあった。
「食器の形や、飲み物が冷める速さを講習へ取り入れるのはどうだろう」
「興味を持つ方はいらっしゃると思います。ただ、それを理由に物理学を一から学ぶかと聞かれると……」
「難しいか」
「難しいと思います」
調査の結果は、いつも同じ結論へ戻ってくる。
物理学的な説明を聞けば面白い。
だが、時間をかけて自分でも学ぼうとは思わない。
ある日は、女性客の多い宝飾店を訪れた。
首飾り。
腕輪。
耳飾り。
髪飾り。
店内には、様々な形の宝飾品が並んでいる。
「宝石が外れにくい留め具には、力の分散が使われています」
女性近衛騎士が、宝石を支える細い爪を見ながら言った。
「こちらの髪留めには、金属が元へ戻ろうとする力が使われていますね」
「構造を説明する講習なら、興味を持つ女性もいるかもしれない」
レオナルドは、店員の許可を得て髪留めの構造を図へ描き始めた。
二人は店内を回りながら、宝飾品へ使われている物理的な仕組みを一つずつ確認した。
どの品物を題材にすれば、女性が興味を持つのか。
講習では実物を見せるべきか。
実際に簡単な宝飾品を作る体験を加えるべきか。
二人の意識は、調査だけへ向けられていた。
だから、店の外から自分たちがどのように見えるのかなど、全く考えていなかった。
若い男女が二人で町を歩く。
向かい合って昼食を取る。
女性向けの宝飾店へ、揃って入っていく。
事情を知らない者から見れば、親しい男女が逢瀬を重ねているようにしか見えなかった。
噂が広がり始めるまで、それほど時間はかからなかった。
――レオナルドに、婚約者以外の恋人ができたらしい。
――相手は、王宮に仕える女性近衛騎士だという。
――二人で何度も町を歩いている。
――宝飾店で贈り物まで選んでいた。
実際には、贈り物など選んでいない。
だが、噂は人から人へ伝わるたびに、少しずつ形を変えていった。
◇
レオナルドの婚約者であるサラが、その噂を初めて耳にしたのは、令嬢たちの茶会だった。
「そういえば最近、レオナルド様を王都でよくお見かけしますの」
一人の令嬢が、何気ない様子で口にした。
「とても親しそうな女性とご一緒でしたわ」
別の令嬢が続ける。
「女性向けの宝飾店にも入っていかれたそうですわね。きっと、大切な方への贈り物を選んでいらしたのでしょう」
二人は意味ありげな視線を交わした。
誰への贈り物なのかは、口にしない。
だが、サラへ聞かせるために話していることは明らかだった。
「レオナルド様は、王太子殿下より重要なお仕事を任されております。お相手の方も、お仕事でご一緒しているのでしょう」
サラは、穏やかに答えた。
レオナルドからは、物理学を普及させるための調査を任されていると聞いている。
忙しいことも理解していた。
だから、初めは噂を信じなかった。
しかし、同じような話を聞く機会は、その後も続いた。
最近は、レオナルドから届く手紙も短くなっている。
これまで定期的に開かれていた二人だけの茶会も、仕事を理由に何度か延期されていた。
忙しいのだから仕方がない。
そう自分へ言い聞かせても、一度胸へ生まれた不安は、簡単には消えなかった。
それでも、噂だけでレオナルドを疑いたくはない。
直接会って、本人の口から話を聞こう。
そう決めたサラは、王宮を訪れた。
◇
王宮へ到着したサラは、レオナルドへの面会を申し出た。
しかし、彼は執務室にはいなかった。
「少し前に、近衛騎士の方と中庭の方へ向かわれました」
王宮の侍従からそう聞き、中庭へ続く回廊を歩いていく。
角を曲がったところで、聞き慣れた声がした。
彼女は足を止める。
回廊の先を、レオナルドと一人の女性近衛騎士が歩いていた。
二人は隣り合い、何かを話している。
レオナルドが笑う。
女性近衛騎士も、つられるように笑った。
少し離れた場所にいるサラには、二人の会話は聞こえない。
彼女に見えたのは、レオナルドが若い女性と楽しそうに笑いながら、肩を並べて歩いている姿だけだった。
声をかけるために王宮まで来たはずだった。
だが、レオナルドの名を呼ぶことができない。
サラは、二人の姿を見つめたまま、その場へ立ち尽くしていた。




