第118話 湖の水を田畑へ
「全てを魔石へ頼る必要はないだろう」
マクシミリアンが地図を覗き込んだ。
森の奥にある湖から、最も近い農地までの距離を指でたどる。
「この湖の水を、直接田畑へ引けばよい」
「直接、ですか?」
「湖は農地より高い場所にある。正確な測量は必要だが、水路を作れば、自然な傾斜で水を流せる場所も多いはずだ」
マクシミリアンは、湖から延びる谷の位置を確認した。
「それほど遠い距離でもない。我が家の技師を派遣しよう。取水口と水路を造れるか、現地を調べさせる」
「マクシミリアン様……」
リリィが驚いたように彼を見る。
「以前、ベレニケ領で取水門を見た時、ランバート領にも欲しいと言っていただろう」
「覚えていてくださったのですか?」
「君が話したことを、私が忘れるはずがない」
マクシミリアンは当然のように答えた。
リリィの頬が僅かに赤くなる。
ランバート子爵は、改めて地図へ目を向けた。
領内では、雨の少ない年になると川の水量が減り、農作物が被害を受ける。
森の奥の湖から安定して水を引くことができれば、全てとはいかなくても、多くの農地を救える可能性があった。
「まさか、これほど近くに水源が存在していたとは……」
ランバート子爵は深く息を吐いた。
「神殿跡地を危険な場所として扱い、森の奥へ誰も入らなかった。そのために、領内を救える水源を見つけられなかったのですね」
「当時は、何が起きたのか分からなかったのです」
エレノアが静かに言った。
「村が水に沈んだ事実だけが残れば、原因を知らない人々が、その場所を避けるようになるのも無理はありません」
「領民には、神殿跡地で何が起きたのかを、どのように伝えるべきでしょうか?」
ランバート子爵が尋ねる。
「現時点で、古代魔道具の存在や地下水の流れの公表は避けた方がいい」
カイルが答えた。
「まずは安全確認が先です。調査が不十分なまま人を入れれば、別の事故が起こる可能性があります」
「では、これまで通り立ち入り禁止を続けるのですか?」
「少なくとも、地底湖と森の奥の湖については、調査が終わるまで立ち入りを制限してください。領民には、地盤と水流に関わる危険区域だと説明するのがよいでしょう」
ランバート子爵は頷いた。
「分かりました。領民を不必要に怯えさせることなく、安全を守る方法を考えます」
湖からの取水については、ランバート家とマクシミリアンの家がそれぞれ技師を出し、正式な測量を行うことになった。
同時に、領内に残されている石柱の位置と状態も調べる。
現在の水の魔石で全てを動かすことは難しい。
それでも、井戸や川から遠い集落など、特に水を得にくい場所では、緊急時の給水装置として利用できる可能性がある。
「この湖と石柱があれば、領内の水不足を減らせるかもしれません」
ランバート子爵は深く頭を下げた。
「皆様には、何とお礼を申し上げればよいか……」
「まだ調査が終わったわけではない。湖の安全性、水量、取水した場合の影響を確認しなければならない。古代魔道具についても、王都へ持ち帰って調べる必要がある」」
カイルは答える。
「はい。ランバート家として、全面的に協力いたします」
◇
翌日。
一行が王都へ戻るための準備は、朝のうちに整えられた。
行きは、ランバート領内に安全な転移先を設定するための位置情報が不足していたため、馬車で移動してきた。
しかし、滞在中に領主館の位置と周辺の魔力状態は計測されている。
転移魔法を扱う研究員が座標を計算し、領主館の中庭へ一時的な転移陣を作り上げた。
転移陣の中央には、地底湖から運び出した古代魔道具が置かれている。
その周囲には、採取した魔石、壁面の古代文字を書き写した資料、地底湖と地上の湖を記した地図がまとめられていた。
「これで王宮へ戻れます」
転移魔法の研究員が最終確認を終えた。
一行が転移陣へ向かおうとした時、ランバート子爵がアリスへ歩み寄った。
「アリス様には、愚娘がアリス様の婚約者を奪ったにもかかわらず、こんなにも領地のためにお力添えいただき……本当に申し訳ございません」
ランバート子爵は深々と頭を下げた。
アリスは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「謝罪は結構ですわ。わたくし、マクシミリアン様より素敵な婚約者ができましたもの」
そう言って、アリスは隣に立つセドリックへ視線を向けた。
セドリックは僅かに目を見開いたものの、すぐに柔らかな表情でアリスを見つめ返す。
ランバート子爵は二人の様子を見て、さらに深く頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございました」
「私にできることをしただけですわ。それに、今回の発見がランバート領の皆様のお役に立つのであれば、わたくしも嬉しく思います」
「そのようにおっしゃっていただけるとは……」
ランバート子爵は顔を上げた。
「お二人が幸せになられることを、見守ってあげてくださいませ」
アリスは穏やかに答えた。
リリィは少し離れた場所で、申し訳なさそうにアリスを見つめていた。
アリスが微笑みかけると、リリィは深く頭を下げる。
その隣では、マクシミリアンが静かにアリスへ礼をした。
「マクシミリアン様も、水路の件、ありがとうございます」
リリィはマクシミリアンへ寄り添い、呟いた。
「礼は、水が田畑へ届いてからでよい」
「それでも、嬉しかったのです」
マクシミリアンは僅かに表情を緩めた。
「では、王都から戻ったら、改めて話をしよう」
転移陣に魔力が流れ始める。
地面へ描かれた線が順番に光り、古代魔道具と一行を包み込んだ。




