第11話 属性魔法を無視した『現象』
セドリックは今、かつてない緊張感と共に、学園の旧校舎の奥深くにある「個人研究室」の扉の前に立っていた。
表向きの名目は、先日解決した召喚獣事件の最終報告書の引き渡し。そして裏の任務は、カイル王子と王太子からの指示による『魔力残滓』のメカニズムの解明と、彼女の国家に対する危険性の調査だ。
だが、今の彼を突き動かしているのは、忠誠心でも義務感でもなかった。あの日彼女が垣間見せた、既存の魔法体系を根底から覆す未知の知識――それを知りたいという、彼自身の抑えきれない知的好奇心である。
(落ち着け。私は王家の側近として、国家の重要人物たる生徒を調査しに来ただけだ。決して、未知の知識に浮かれているわけではない……)
セドリックは、自らの激しい渇望に「密命」という強固な大義名分の蓋を被せ直すと、女性の部屋を訪ねるという生理的な忌避感さえも強引にねじ伏せた。大きく一度深呼吸をし、彼は重厚な木製の扉をノックした。
「開いています。どうぞ」
中から聞こえてきたのは、あまりに無頓着で、どこか上の空な声だった。
そして、……セドリックは扉を開けた瞬間、肺からすべての空気が抜け落ちた。
「……っ!?」
目の前で、一本の竹箒が床を掃いている。それだけなら、風属性の魔法を付与した魔道具だと解釈できただろう。
だが、決定的な違和感がある。風の音がしない。空気の揺らぎ(プレッシャー)も感じない。そして何より――その箒を操っているはずの主人が、箒を一切見ていないのだ。
アリス・ベレニケは、部屋の奥で山のような書類に埋もれ、一心不乱にペンを走らせていた。
(なぜだ? 風属性の魔法であれば、継続的な集中と、気流を制御するための複雑な魔力操作が必要なはず。だが、あの箒はまるで『そこで掃除をする事が当たり前』であるかのように動いている……)
さらに、アリスは書類から目を離さないまま、無造作に右手の指を緩やかに回転させた。すると、背後の本棚から一冊の分厚い魔導書が勝手に飛び出し、重力を無視してふわふわと宙を泳ぎ始めた。本は彼女の手元までたどり着くと、まるで意志を持っているかのように適切なページを自ら開いて静止した。
「属性魔法ではない……。物質そのものを直接、魔力で動かしているのか……?」
セドリックの口から、驚愕のあまり掠れた声が漏れた。この世界において、属性を介さずに直接的な干渉を行う魔法など存在しないはずだった。
* * *
(……ふむ。箒の重心に一点の力を加え続けるよりも、周期的なトルクを発生させて振り子運動を維持する方が、魔力消費効率(燃費)が良いわね)
私は思考の半分を床掃除の自動化に、もう半分を空間座標の固定理論の構築に割いていた。 前世では機械で行っていた単純作業も、この世界ではマナを直接ベクトルとして定義し、物質に干渉させることで代行できる。
(次は資料の参照……。位置エネルギーを保存したまま、最小の仕事量で本を手元に。空気抵抗を考慮して、移動速度は v=0.5m/s 程度で十分ね)
指先で空間のベクトルを操作し、本棚の角運動量を制御する。
その時、不意に背後で「……っ!?」という、空気が漏れるような音が聞こえた。
(あっ!)
そこでようやく、私は来客の存在を思い出した。顔を上げると、そこには端正な顔立ちを驚愕で歪ませ、幽霊でも見たかのような顔で立ち尽くすセドリック様の姿があった。
「……あ、セドリック様。ノックに気づいてはいたのですが、計算のキリが悪くて。お待たせしてしまいましたか?」
私は空中を漂っていた本をパチンと閉じ(正確には、重力加速度に従って机に軟着陸させ)、箒への魔力供給を遮断した。バタリ、とただの棒に戻った箒を見つめる彼の瞳は、もはや私を「変人」ではなく、「異質な存在」を見るような色に染まっていた。
「……それで、今日はどういったご用件ですか、セドリック様?」
私の問いかけに、セドリック様はようやく現実の座標へと帰還したようだった。彼は何度か瞬きをし、手に持っていた封筒を差し出した。
「……失礼した。先日の召喚獣事件の最終報告書だ。君の証言が完全に立証されたことを、正式に伝えに来た」
「ありがとうございます。わざわざ届けてくださるなんて、セドリック様も意外とマメなのですね」
私は報告書を受け取り封を切り、中身をスキャンするように読み進める。
(ふむ。召喚獣の行動履歴とマナの減衰率が私の計算と一致しているわ。これでこの件に関する私の『時間コスト』の支出は完全に終了ね)
私が報告書に目を通している間、セドリック様は手持ち無沙汰そうに室内を見渡していた。その視線は、先ほどまで宙に浮いていた本や、今やただの棒として壁に立てかけられた箒に、吸い寄せられるように止まっている。




