第112話 山の重みと水の恵み
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目の前に立ちはだかる石壁は、複数の石を隙間なく組み合わせて造られた、人工の壁だった。
中央には円形の石が埋め込まれ、その左右の床には細長い石板が敷かれている。
石板の周囲には溝が刻まれ、中央の円へつながっていた。
「行き止まりですか?」
リリィが尋ねる。
「いいえ」
アリスは携帯灯の炎を確認した。
炎は、石壁の方へ僅かに傾いている。
「この先から空気が流れてきますから、壁の向こうにも空間があるはずですわ」
騎士たちが石壁を押したが、動く様子はない。
取っ手も、鍵穴も見当たらなかった。
エレノアは、壁の上部に刻まれた彫刻へ携帯灯を近づけた。
表面は劣化していたが、二人の人物が向かい合い、それぞれ異なるものを捧げているように見える。
片方は岩。
もう片方は、水を入れた器。
二人の間には、山を表す三角形と、波を表す曲線が刻まれていた。
その下には、見慣れない古い文字が並んでいる。
「読めますか?」
カイルが尋ねる。
「全てではありませんが、一部は地方史の古文書で見たことがあります」
エレノアは指先で文字を追った。
「これは、源泉へ立ち入る前に行われていた儀式について記したものです」
「儀式?」
「山の重みと、水の恵み。二つを捧げ、それらが等しくなった時、内なる道が開かれる……おそらく、そのような意味です」
エレノアは左右の細長い石板を見下ろした。
「古い神殿では、聖域へ入る前に、石と水を天秤へ載せる儀式が行われていたという記録があります。神官が山から切り出した石と、泉から汲んだ水を捧げ、両者の均衡を示したそうです」
「では、この石板が天秤なのか?」
マクシミリアンが片方へ足を載せる。
石板が僅かに沈み、反対側の石板が浮き上がった。
同時に、中央の円形の石が小さな音を立てる。
「動きましたわ!」
石板の側へ駆け寄ろうとするアリスだが、セドリックに手を引かれ、その場から動くことができなかった。
「床を確認してからです」
「もう亀裂はありませんわ」
「装置が動いた直後です」
護衛が周囲の安全を確かめた後、アリスは二枚の石板を詳しく調べた。
左右の石板は、中央の円形の石を挟むように配置されている。
一見すると同じ長さだが、床の溝をたどると、地下で力が伝わる位置が異なっていた。
「エレノア様の知識がなければ、これが扉を開く装置だとは気づかなかったでしょう」
アリスは石板の端から中央までの距離を測った。
「ですが、単純に同じ重さのものを載せればよいわけではありませんわ」
「等しくするのではないのか?」
カイルが尋ねる。
「等しくするのは、重さではなく、回転させる力です」
アリスは紙へ簡単な図を描いた。
「同じ重さでも、支点から遠い場所へ載せた方が、装置を回そうとする力は大きくなります。扉の下にある回転軸へ伝わる力を、左右で釣り合わせる必要があるのでしょう」
「儀式に使われた石と水の量が分からなければ、開けられないのではありませんか?」
リリィが不安そうに尋ねる。
「元と同じものである必要はありませんわ。左右から伝わる力さえ同じになればよいのです」
アリスは石板の長さと、溝が中央へ集まる位置を測った。
左側は、力が伝わる位置が中央に近い。
右側は、その倍近く離れている。
「左側には、右側のおよそ二倍の重さが必要です」
持参した荷物から、重さの近い箱が選び出された。
左の石板へ二箱。
右の石板へ一箱。
それぞれ、アリスが指定した位置へ置く。
石板がゆっくりと沈んだ。
しかし、中央の円に刻まれた線は、僅かに左へ傾いている。
「もう少し調整が必要ですわね」
「石を足しますか?」
「石では細かな調整ができません。水を使いましょう」
予備の水が入った革袋を右側の箱へ載せ、少しずつ水を注いでいく。
水が増えるたびに、中央の線が動いた。
アリスは線の傾きを見ながら、注ぐ量を調整する。
やがて二本の線が、一直線に重なった。
低い金属音が、石壁の内部から響く。
「釣り合いましたわ」
次の瞬間、中央の円形の石が奥へ沈んだ。
壁の向こうで、重いものが動き始める。
石と石が擦れる音が円形の空間へ響き、目の前の石壁がゆっくりと左右へ分かれていった。
隙間から、冷たい風が吹き抜ける。
これまでよりも強い、水の匂いがした。
エレノアは、開いた壁と彫刻を交互に見てつぶやいた。
「開きました……。儀式として伝えられていたものが、そのまま扉を動かす方法だったのですね」
石壁の先にも、洞窟は続いていた。
先ほどまでより天井が高く、通路の傾斜も急になっている。
壁には一定の間隔で人工的に削られた窪みがあり、かつては照明か何かが設置されていたと思われた。
一行は装備を確認し直し、さらに奥へ進んだ。
進むほど湿度が上がっていく。
岩肌を流れる水の量も増え、足元には細い流れができていた。
やがて、水滴の音に別の音が混じり始める。
低く、途切れることのない響き。
大量の水が、どこかで揺れている音だった。
「近いですわ」
アリスが足を速めようとする。
セドリックが、再び繋いだままの手を引いた。
「走らないでください」
「走っておりませんわ。少し歩く速度が上がっただけです」
「同じことです」
「違いますわ」
言い合いながらも、アリスはセドリックの手を振りほどかなかった。
通路の先に、広い空間が現れた。
先頭の騎士が足を止め、携帯灯を高く掲げる。
しかし、その光だけでは空間の奥まで届かない。
続く者たちも灯りを掲げた。
幾つもの光が重なり、巨大な洞窟の一部を照らし出す。
その先で、暗い水面が揺れていた。
光を映した波紋が、どこまでも奥へ広がっていく。
対岸は見えない。
天井も、携帯灯の光が届かないほど高い。
山脈の地下に、人知れず広大な湖が存在していた。
「地底湖……」
エレノアの声が、静かな洞窟の中へ響いた。
水面の向こうから、冷たい風が吹いてくる。
一行は言葉を失ったまま、暗闇の中に広がる湖を見つめていた。




