閑話 セドリック~婚約者は私なのだが~
最近は古代文明の謎ばかりを追いかけておりますが、本作は異世界〔恋愛〕です(笑)。
ということで、今回は少し恋愛成分を補給する、セドリック視点の閑話です。
少し時間を遡り、地下へ続く階段が現れた場面から始まります。
※本編の進行には影響しない閑話です。
いつもは冷静なセドリックの胸の内を、覗いてみませんか?
※本編、毎日 朝5時に予約投稿で更新中
地下へ続く階段が現れた瞬間、アリスは迷うことなく前へ出た。
その肩を、マクシミリアンが後ろから掴む。
「待て。まだ入るな」
「見るだけですわ」
「お前の“見るだけ”は信用できない!」
そのやり取りを、セドリックは少し離れた場所から見ていた。
――まただ。
アリスが動き出した瞬間、セドリックも止めようとしていた。
しかし、実際に彼女へ手を伸ばしたのは、マクシミリアンの方が先だった。
それも、アリスが何をしようとしているのか、最初から分かっていたかのような迷いのない動きだった。
思い返せば、今日だけではない。
アリスが危険な実験を始めようとする。
マクシミリアンが止める。
アリスが反論する。
マクシミリアンが怒鳴る。
いつも、その繰り返しだった。
二人は、言葉を交わすより先に相手の行動を察している。
長く一緒に過ごしてきた者同士にしかない、独特の呼吸だった。
――アリスの婚約者は、私なのだが。
セドリックの胸に、僅かな苛立ちが生まれた。
もちろん、マクシミリアンがリリィを深く愛していることは知っている。
石畳が動いた時、真っ先に守ったのもリリィだった。
アリスに対する言動に、恋情など欠片も含まれていないことも分かっている。
分かっているのだが。
「本日の調査は、ここで終えるべきです」
エレノアが、未知の地下施設へ入る危険性を説明している間も、セドリックの視線はアリスとマクシミリアンへ向けられていた。
カイルが全員の疲労を確認するために周囲を見渡した時、セドリックの表情も目に入った。
身体には、目立った疲労はない。
ただ、その表情だけは疲労とは別の理由で僅かに曇っていた。
カイルは何かに気づいたように片方の眉を上げたが、今は何も言わなかった。
◇
領主館へ戻った後も、セドリックの胸に生まれたものは消えなかった。
夕食を終え、翌日の調査に必要な装備を確認する。
携帯灯。
予備の油。
縄。
壁へ目印を残すための道具。
空気の状態を調べる器具。
手を動かしている間は気にならなかった。
しかし、作業が途切れると、再び遺跡での二人のやり取りが頭に浮かんでくる。
マクシミリアンは、アリスのことをよく理解している。
危険な場所へ迷わず進むこと。
興味を持ったものしか目に入らなくなること。
自分の安全より、観測や実験を優先すること。
そして、口で止めただけでは決して止まらないこと。
セドリックも、それらを知っているつもりだった。
だが、今日、先に動いたのはマクシミリアンだった。
「……くだらないですね」
誰に聞かせるでもなく、セドリックは呟いた。
マクシミリアンは、リリィの婚約者。
アリスは、自分の婚約者。
疑う理由など、どこにもない。
それでも、胸に残った小さな引っ掛かりは消えなかった。
部屋へ戻ろうと廊下を歩いていると、中庭に面した回廊にリリィの姿が見えた。
彼女は一人で椅子に座り、明日の調査へ持っていく荷物の一覧を確認している。
セドリックは足を止めた。
少し迷った後、リリィのもとへ歩み寄る。
「リリィ嬢。少しよろしいでしょうか」
リリィが顔を上げた。
「はい。どうかなさいましたか?」
セドリックは、彼女の向かいへ座った。
しかし、何から尋ねればよいのか分からない。
しばらく黙っていると、リリィが不思議そうに首を傾げた。
「明日の調査についてでしょうか?」
「いえ……」
セドリックは僅かに視線を外した。
「リリィ嬢は、アリスとマクシミリアン殿のやり取りを見て、何か思うところはありませんか?」
「アリス様と、マクシミリアン様ですか?」
「はい」
リリィは何度か瞬きをした。
「何かとは、どのようなことでしょう?」
「二人は、元婚約者同士です」
セドリックは言葉を選びながら続けた。
「それに、互いの行動をよく理解しています。今日も、マクシミリアン殿はアリスが階段へ入ろうとした瞬間、誰よりも早く止めていました」
リリィは、しばらくセドリックの顔を見つめていた。
やがて、何かに気づいたように目を見開く。
「セドリック様は、それが気になっていらっしゃるのですか?」
「……多少は」
「まあ」
リリィの口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「私は、全く気になりませんわ」
「全くですか?」
「はい。だって、マクシミリアン様が想ってくださっているのは、私ですもの」
迷いのない返事だった。
「しかし、二人は以前――」
「リリィに何を吹き込んでいる!」
突然、回廊へマクシミリアンの声が響いた。
セドリックが振り返る。
廊下の先には、険しい表情をしたマクシミリアンが立っていた。
どうやらリリィを探していたらしい。
彼は足早に近づいてくると、庇うようにリリィの前へ立った。
「二人きりで何を話している! しかも、アリスと私が何だと?」
「違うのです、マクシミリアン様」
リリィが宥めるように言った。
「セドリック様は、今日、マクシミリアン様とアリス様が親しげに言い合っているところをご覧になって、やきもきしていらしたのです」
「……はあ?」
マクシミリアンが、ゆっくりとセドリックへ顔を向けた。
セドリックは黙って視線を逸らした。
「まさか、私とアリスの仲を疑っているのか?」
「疑っているわけではありません」
「では、なぜ目を逸らす!」
「自分でも、うまく説明できないからです」
マクシミリアンは、信じられないものを見るような目を向けた。
「あり得ない! 私が愛しているのはリリィだけだ!」
「それは分かっています」
「分かっていないから、こんな話をしているのだろう!」
「本当に分かっています」
セドリックは、今度はマクシミリアンを真っ直ぐに見た。
「マクシミリアン殿が、リリィ嬢だけを想っていることは疑っていません。ただ、二人は互いの行動をよく理解しているように見えましたので……リリィ嬢も、私と同じような気持ちになることはないのかと尋ねていたのです」
「同じような気持ち?」
「自分の婚約者の事を、別の者の方が理解しているように見えた時、何も感じないのかと」
その言葉を聞いたマクシミリアンの表情が変わった。
勢いよくリリィへ振り返る。
「リリィ!」
「はい?」
「私は、君を不安にさせていたのか?」
「いいえ」
リリィは即座に答えた。
「本当に?」
「はい」
「我慢しているのではないか? アリスと話すなと言われれば、今後はできる限り――」
「必要ありませんわ」
リリィは微笑みながら、マクシミリアンの手を取った。
「マクシミリアン様は、いつも私に愛を伝えてくださっていますもの」
「当然だ」
「朝にお会いすれば、今日も可愛いと言ってくださいます。食事のたびに、私と一緒に食べられて嬉しいと仰います。少し離れていただけでも、会いたかったと言ってくださいます」
「当然のことだろう」
セドリックは、僅かに眉を動かした。
マクシミリアンは、その反応を見逃さなかった。
「何だ、その顔は」
「いえ。想像していた以上でしたので」
「愛する婚約者へ愛情を伝えるのは当然だ!」
「一日に何度もですか?」
「回数に上限などない!」
マクシミリアンは胸を張った。
リリィは少し頬を赤らめながらも、嬉しそうに微笑んでいる。
「ですから、マクシミリアン様がアリス様とお話ししていても、不安にはなりません」
リリィがセドリックへ向き直った。
「それに、マクシミリアン様がアリス様を見ている時のお顔は、危険な魔道具を見張っている時と同じですもの」
「そのとおりだ!」
マクシミリアンは力強く同意した。
「放っておけば、必ず何かをしでかす! そしてアリスが何かをしでかせば、なぜか私まで巻き込まれるのだ! だから先に止めているだけだ!」
「マクシミリアン様。それでは、アリス様が少しお気の毒です」
「事実だろう!」
リリィは困ったように笑った後、再びセドリックを見た。
「もしかすると、セドリック様が不安に感じていらっしゃるのは、マクシミリアン様ではなく、別のことなのではありませんか?」
セドリックが顔を上げる。
「別のこと?」
「アリス様のお気持ちです」
その言葉に、セドリックは答えられなかった。
リリィは静かに続ける。
「アリス様がセドリック様を大切に想っていらっしゃることは、私にも分かります。ですが、アリス様は、ご自身から愛情を言葉にすることが、あまり得意ではありませんでしょう?」
「……はい」
「セドリック様は、アリス様へ愛を伝えていらっしゃいますか?」
「婚約を申し込んだ時には、きちんと伝えました」
「それからは?」
セドリックは記憶をたどった。
アリスを大切に想っている。
誰よりも愛している。
それは自分の中では、あまりにも明確なことだった。
だが、それを言葉にした回数は多くない。
「……あまり、伝えていないかもしれません」
「それでは、返ってきませんわ」
「返ってこない?」
「アリス様から愛の言葉を頂きたいのであれば、まずセドリック様から投げかけなければなりません」
リリィは、少し悪戯っぽく笑った。
「こちらから投げかけなければ、アリス様からはなかなか返ってきませんことよ」
「私は、きちんとリリィから愛情を返してもらっているぞ」
マクシミリアンが得意げに言う。
「毎日伝えているからな!」
「はい。私も、マクシミリアン様をお慕いしております」
リリィが微笑みながら答える。
マクシミリアンの顔が、目に見えて明るくなった。
「今のを聞いたか、セドリック殿!」
「聞きました」
「羨ましいだろう!」
「少し黙っていただけますか」
セドリックはため息をついた。
だが、胸の中に残っていた引っ掛かりは、先ほどよりもずっと小さくなっていた。
◇
翌朝。
神殿跡地へ向かう準備を整えた一行が、領主館の玄関前へ集まっていた。
アリスは、追加された計測器の確認に夢中になっている。
「温度計、湿度計、空気の流れを調べる器具……全てそろっていますわね」
その隣へ、セドリックが歩み寄った。
「アリス」
「はい?」
アリスが顔を上げる。
セドリックは、昨夜リリィから受けた助言を思い出した。
こちらから、投げかける。
「今日も、あなたと共に調査できることを嬉しく思います」
「……はい?」
アリスの動きが止まった。
「それから、あなたが私の婚約者であることを、私はとても幸せに思っています」
アリスは目を見開いた。
周囲で荷物を運んでいた騎士や文官たちの動きも止まる。
少し離れた場所では、マクシミリアンとリリィが二人の様子を見ていた。
リリィは嬉しそうに微笑んでいる。
マクシミリアンは腕を組み、何度も頷いていた。
アリスは、突然与えられた言葉を処理するように何度か瞬きをした。
「どうなさいましたの、突然……」
「伝えなければ、返ってこないと教えていただきましたので」
セドリックの視線が、僅かにマクシミリアンとリリィへ向く。
アリスも、その視線を追った。
「お二人が、何か仰ったのですか?」
「余計なことは考えなくてよい!」
マクシミリアンが答える。
「今は、きちんと返すところだ!」
「何を返すのですの?」
「愛情だ!」
アリスの顔が、一気に赤くなった。
再びセドリックへ向き直る。
「わ、わたくしも……」
言葉が止まる。
アリスは深く息を吸った。
「わたくしも、セドリック様が婚約者であることを、幸せに思っておりますわ」
セドリックの表情が、僅かに緩んだ。
昨日から胸に残っていたものが、ようやく消えていく。
「ありがとうございます、アリス」
「……そのように改めて言われますと、落ち着きませんわ」
「では、慣れていただきます」
「慣れる?」
「これからは、できるだけ言葉にしてお伝えしますので」
アリスの表情が固まった。
「毎日ですの?」
「回数に上限はないそうです」
セドリックは、マクシミリアンへ視線を向けた。
「そのとおりだ!」
マクシミリアンが力強く答える。
「ちょっと待ってくださいませ!」
アリスの声が、領主館の前へ響いた。
少し離れた場所にいたカイルは、セドリックの表情を見て小さく息を吐いた。
昨日、遺跡で見た曇りは、もう残っていない。
何があったのかは分からないが、問題は解決したらしい。
「どうしたのです、急に」
レオナルドが、いつになく積極的なセドリックへ尋ねた。
「昨日まで、そのようなことを人前で仰る方ではなかったでしょう」
「愛情は、心の中にあるだけでは相手へ伝わらないと教わりました」
「どなたに?」
セドリックは、マクシミリアンへ視線を向けた。
「マクシミリアン先生に」
「誰が先生だ!」
マクシミリアンの怒声が響く。
しかし、レオナルドは笑わなかった。
何かに気づいたように、真剣な表情で考え込んでいる。
「……そういえば、私も伝えていません」
「何をだ?」
カイルが尋ねた。
「婚約者へ、です」
レオナルドは、自らの言動を振り返った。
定期的に手紙は送っている。
最近の出来事や、今回の調査についても知らせた。
だが、どの手紙も報告書のような内容ばかりだった。
身体を気遣う言葉は書いている。
贈り物を同封することもある。
しかし、大切に想っていると、最後にいつ伝えただろう。
思い出せなかった。
レオナルドは、すぐにカイルへ向き直った。
「カイル殿下。出発前に、使い魔を飛ばしてもよろしいでしょうか」
「今からか?」
「はい。短い手紙を一通だけです」
「出発の準備を遅らせるなよ」
「ありがとうございます!」
レオナルドは急いで領主館の中へ戻っていった。
その場に残された者たちは、彼の背中を見送る。
やがて、荷物を運んでいた一人の騎士が手を止めた。
「……私も、最近は任務の報告しか送っていないな」
隣にいた文官も、視線を泳がせる。
「私など、出発前に婚約者から届いた手紙へ、帰ったら返事をするとだけ……」
「それはまずいのではないか?」
「やはり、まずいでしょうか」
二人は顔を見合わせた。
少し離れた場所からも、別の声が上がる。
「妻へ、無事だとしか伝えていない」
「私は昨日、妹にだけ土産を買うと書いたような……」
「それは婚約者が怒るぞ」
気づけば、騎士や文官たちが次々に鞄から紙を取り出し始めていた。
「待て!」
カイルが声を張り上げる。
全員の動きが止まった。
「一人一通だ! 出発時刻は変えない! 使い魔を飛ばせない者は、扱える者へ預けろ!」
「ありがとうございます!」
方々から声が返ってくる。
領主館の玄関前は、突然、手紙を書く者たちで溢れた。
書き終えた手紙は、小鳥や蝶、光の玉といった姿を持つ使い魔へ次々に託されていく。
やがて何体もの使い魔が、一斉に王都やそれぞれの領地へ向かって飛び立った。
朝の空を横切っていく光景を見上げ、カイルは額を押さえた。
「一人の愛の言葉が、随分と広がったものだな……」
その時、一人の若い騎士が、真剣な表情でマクシミリアンの前へ立った。
「マクシミリアン先生」
「お前までそう呼ぶな!」
「婚約者へ何と書けばよいでしょう。大切に想っているのですが、うまく言葉にできません」
「思っていることを、そのまま書けばよいだろう!」
「そのまま、ですか?」
「会いたいなら会いたい。愛しているなら愛していると書け! 余計な飾りはいらない!」
若い騎士は目を見開いた。
「なるほど……!」
「なぜ感心する!」
今度は文官が一人、手紙を手に近づいてくる。
「先生、婚約者との約束を忘れていたことを、まだ謝れていないのですが」
「自分が悪いと思っているなら、すぐに謝れ!」
「言い訳は?」
「先に謝れ! 言い訳を考える暇があるなら、二度と忘れない方法を考えろ!」
「勉強になります!」
「私は恋愛指南役ではない!」
そう叫ぶマクシミリアンの後ろで、リリィは楽しそうに笑っていた。




