第106話 記録にない湖
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「少なくとも、ランバート家がこの領地を治めるようになってから、あの場所に湖があった記録はありません」
領地の文官は、机に広げた地図の一点を指した。
神殿跡地がある森と、その周辺の土地が描かれている。
年代の異なる地図を何枚か並べてみても、湖らしきものはどこにも記されていなかった。
「神殿跡地の周辺で、大規模な洪水が起きたという記録もございません。川が氾濫し、農地が被害を受けた年はございますが、いずれも神殿跡地からは離れた地域です」
「では、文献に記されていた湖は、それよりも古い時代のものなのでしょうか」
セドリックが尋ねる。
「その可能性はございます。しかし、ランバート家に残る記録だけでは確かめられません」
文官は申し訳なさそうに頭を下げた。
エレノアは、王都から持参した文献の写しを地図の隣へ置いた。
「そもそも、王都で発見された文献も、湖や村に異変が起きた当時の記録ではありません」
文献の末尾には、それがさらに古い記録を書き写したものであることが記されている。
元となった記録が、いつ、誰によって書かれたものなのかは分からない。
「つまり、記録そのものが間違っている可能性もありますの?」
アリスが尋ねた。
「否定はできません。ただ、出来事そのものが誤りとは限りません。書き写される間に、言葉の意味が変わった可能性もあります」
「言葉の意味が?」
「はい。文献にある“湖”が、私たちの知る湖と同じものを指していたとは限りません。今では使われていない言葉を、後世の文官が自分の知っている表現へ置き換えたとも考えられます」
古い文献では、同じ言葉が時代や地域によって異なる意味で使われることがある。
写しが繰り返されれば、書き間違いや解釈の違いが入り込むことも珍しくない。
「では、“呪い”という言葉も同じなのでしょうか」
リリィが尋ねた。
エレノアは頷いた。
「災害や事故、あるいは当時の者には理解できない現象を、後世の人々が呪いと呼んだ可能性があります。反対に、本当にそのような言い伝えがあった可能性も残されています」
どちらとも断定はできない。
分かっているのは、古い神殿の周辺に湖と村があり、その村が何らかの異変に見舞われたと文献に記されていることだけだった。
聞き取りは、その後も続けられた。
神殿跡地に最も近い村に暮らす者。
農地や水路を管理している者。
領内の伝承に詳しい老人。
狩りや薬草採取のため、日頃から森へ入っている者。
しかし、誰に尋ねても、最後には同じ言葉へ行き着いた。
神殿跡地へ近づいてはならない。
崩れた石壁や柱があり、危険だからだ。
それ以上のことを知る者はいなかった。
文献に記された湖も、沈んだ村も、現在の領民には伝わっていない。
庭や田畑に置かれている石の置物についても調べられた。
置物は人の膝ほどの高さで、上部には浅い窪みがあり、側面には何本かの細い溝が刻まれている。
形には多少の違いがあるものの、どれもよく似ていた。
「家と畑を守るお守りです」
ある農夫は、そう答えた。
「私が子供の頃には、もうここにありました。父から、動かしてはならないと言われております」
「なぜ、動かしてはならないのですか?」
エレノアが尋ねると、農夫は困ったように首を傾げた。
「さあ……。昔から、そう決まっているとしか」
ほかの家でも、返ってくる答えは変わらなかった。
置物を誰が作ったのか。
いつ、何のために置かれたのか。
なぜ似た形のものが領内の各地に残されているのか。
それを知る者はいなかった。
調査を始めて三日目。
領主館の一室には、聞き取りの記録と、年代の異なる地図が所狭しと広げられていた。
「これ以上、領民から話を聞いても、新しい情報は得られそうにありませんわね」
アリスが椅子の背へ身体を預けた。
いつもなら僅かな可能性も見逃さず調べ続けるところだが、今回は尋ねる相手を変えても、同じ答えが繰り返されるばかりだった。
「はい。聞き取りの範囲を広げても、“近づいてはならない”という言い伝えへ戻ってしまいます」
エレノアも記録から顔を上げた。
「文献に記された湖と村については、領内の伝承から失われています。これ以上を知るには、現地に残る痕跡を直接調べるほかありません」
カイルは、机の中央に広げられた地図を見下ろした。
神殿跡地は領地の外れにある森の中に記されている。
周辺に村や街道はなく、最も近い農地からも離れていた。
「では、明日の朝、神殿跡地へ向かおう」
カイルが決定を下した。
「案内には、現地を知る猟師を付けてもらう。崩落の危険もある。護衛を増やし、遺跡へ入る人数はこちらで決める」
「わたくしも同行いたします」
リリィが言った。
マクシミリアンが、すぐに彼女へ顔を向ける。
「危険な場所かもしれないぞ」
「承知しております。ですが、実際にあの場所へ入ったことがあるのは、ここにいる中では私だけです」
「それは、子供の頃の話だろう」
「だからこそ、現地を見なければ思い出せないこともあると思います。紋が刻まれていた柱の位置も、近くまで行けば分かるかもしれません」
「だが――」
「マクシミリアン様も同行なさるのでしょう?」
「それは当然だ」
「でしたら、安全についてはお任せいたします」
リリィに微笑みかけられ、マクシミリアンは反論する言葉を失った。
しばらく難しい顔をしていたが、やがて大きく息を吐く。
「……絶対に、私のそばを離れるな」
「はい」
翌朝。
必要な調査道具を積んだ馬車が、領主館を出発した。
先頭を護衛騎士が進み、その後ろを調査員たちの馬車が続く。
一行は街道を外れ、田畑の間を通る細い道へ入った。
道沿いに建つ家々の庭には、聞き取りで話に出た石の置物が立っていた。
畑の端や水路のそばにも、同じようなものが置かれている。
長い年月を経て角が丸くなり、上部の窪みには雨水がたまっていた。
アリスは馬車の窓から、その一つ一つを目で追った。
「気になりますか?」
向かいに座るセドリックが尋ねる。
「ええ。これほど多く残されているのに、誰も由来を知らないというのが不思議ですわ」
アリスは手元の紙へ、置物のあった場所を書き留めた。
ただし、今は神殿跡地の調査が先である。
やがて農地が途切れ、道の先に深い森が現れた。
馬車で進めるのは、そこまでだった。
一行は必要な道具を分けて持ち、護衛を先頭に森へ入った。
案内役の猟師が、獣道と見分けがつかないほど細い道を選びながら進んでいく。
木々の間から差し込む光は少なく、足元には湿った落ち葉が積もっていた。
倒木を越え、緩やかな斜面を上り、さらに森の奥へ進む。
しばらくすると、前方が急に明るくなった。
木々が途切れた先には、広い草原があった。
人の腰ほどまで伸びた草が風に揺れ、その間から何本もの石柱が突き出している。
途中から折れた柱。
根元だけを残した柱。
草に埋もれ、先端しか見えない柱。
一見すると不規則に散らばっているようだった。
「ここが、神殿跡地です」
案内役の猟師が足を止めた。
「私どもも、ここから先へ入ることはほとんどありません」
神殿と呼ばれてはいるが、それらしい建物は見当たらない。
湖の跡を思わせる地形もなかった。
見渡す限り、風に揺れる草と、崩れた石柱が続いているだけである。
「本当に、ここに神殿があったのでしょうか」
レオナルドが周囲を見回す。
「昔から、そう伝えられております」
猟師は、それ以上答えられないことを詫びるように頭を下げた。
調査員たちは手分けをし、柱の位置や大きさを記録し始めた。
アリスとセドリックは石材を確認し、携帯してきた計測器で魔力反応を調べる。
だが、どの柱からも反応は得られなかった。
「エレノア様、何か分かりますか?」
アリスが尋ねた。
エレノアは返事をせず、草原の向こうに連なる山脈と、柱の位置を交互に見比べていた。
やがて、山の麓へ向かって歩き出す。
「離れて見ると無秩序に見えますが、柱の数は山へ近づくほど増えています」
彼女が指した先には、草に埋もれた石材が点々と続いていた。
「古い記録では、山や水源を神聖な場所と見なし、その近くへ神殿を建てた例がいくつかあります。この神殿も、山を背にするように建てられていたのかもしれません」
「では、あちらが神殿の中心ですか?」
「まだ断定はできません。ただ、調べる価値はあると思います」
「柱の並びをたどってみよう」
カイルの指示を受け、一行は山脈へ向かって進み始めた。
柱を一つずつ確かめながら歩いていくと、山へ近づくにつれて、その間隔は次第に狭くなっていった。
地面に埋もれた石材も増えていく。
途中でセドリックが足を止め、草の下へ手を伸ばした。
「ここだけ、地面が平らです」
草をかき分けると、その下から長方形に加工された石が現れた。
同じ大きさの石が、一定の幅で山へ向かって並んでいる。
「道があったようですわね」
アリスも隣へしゃがみ込んだ。
一行は草に隠された石の道をたどった。
山の影が草原へ伸び始めた頃、前方に切り立った崖が現れた。
周囲の斜面よりも奥まった場所にあり、草原から眺めただけでは存在に気づきにくい。
崖へ近づくほど、残された柱の数は増えていった。
折れた柱に混じり、崩れた壁や石段らしきものも草の間から姿を現す。
「やはり、こちらが中心部だったようですね」
エレノアが記録へ書き加える。
崖の前まで来ると、地面を覆っていた草が途切れた。
土と苔の下には、広い範囲にわたって石畳が敷かれている。
規則正しく並んだ石から見て、かつてこの場所に大きな建物があったことは間違いなかった。
「ここです!」
突然、リリィが声を上げた。
石畳の先へ駆け出そうとする。
「リリィ、走るな! 足元が崩れるかもしれない!」
マクシミリアンが慌てて後を追った。
リリィは速度を落としながらも、折れた柱や崩れた壁の間を迷わず進んでいく。
やがて、四本の柱に囲まれた場所で足を止めた。
「この場所です。幼い頃、友人たちとよく遊んでいました」
四本の柱は、石畳の上へ四角形を描くように配置されていた。
上部は全て失われ、表面も激しく風化している。
柱同士をつないでいたと思われる壁は、ほとんど崩れ落ちていた。
「紋があったのは……」
リリィは、一本ずつ柱を確かめていった。
そして、崖に最も近い柱の前で足を止める。
「こちらです」
土と苔に覆われた表面を、布で慎重に拭う。
長い年月によって薄くなりながらも、そこには確かに紋が残されていた。
三つの曲線が重なり、その中央を一本の線が貫いている。
アリスは荷物から、ベレニケ領で写し取った図面を取り出した。
柱に残された紋と、何度も見比べる。
セドリックも、線の重なる位置や曲線の形を確認した。
「一致していますわ」
アリスの声が、僅かに弾んだ。
「線の比率も、重なる位置も同じです。偶然似た形になったものではありません」
セドリックが言った。
リリィの幼い頃の記憶は、正しかった。
そして、この神殿跡地が、ベレニケ領で見つかった古代魔道具と何らかのつながりを持つことも、もはや疑いようがなかった。




