第102話 リリィの差し入れが、新たな手掛かりを運んでくる
それから数日が過ぎた。
開発室の壁は、何度も書き直された設計図や、ベレニケ領で記録した古代魔道具の図面で埋め尽くされていた。
机の上にも、試験結果を記した資料が山積みになっている。
失敗した部品には番号が付けられ、変換機構の周囲に並べられていた。
アリスとセドリックは、朝からほとんど席を立っていない。
カイルとレオナルドも、必要な素材や職人の手配に追われている。
マクシミリアンは、試験のたびに安全確認を行いながら、その合間に学園の課題へ目を通していた。
誰の顔にも、疲労の色が浮かんでいた。
その日の午後。
開発室の扉が、控えめに叩かれた。
「失礼いたします」
扉を開けて入ってきたのは、大きな籠を抱えたリリィだった。
籠の中には、小さく切り分けられた焼き菓子や、果実を使った菓子が詰められている。
その後ろには、温かい飲み物を載せた盆を持つ侍女も控えていた。
「皆様、ずっと作業を続けていらっしゃると伺いましたので、差し入れをお持ちしました」
「リリィ」
マクシミリアンが顔を上げた。
疲れ切っていた表情が、僅かに明るくなる。
「来てくれたのか」
「はい。ですが、これはマクシミリアン様だけの分ではありませんよ」
「分かっている」
そう答えながらも、マクシミリアンはすぐに立ち上がり、リリィから籠を受け取った。
カイルは開発室を見回した。
「ちょうどよい。全員、作業を止めろ。休憩にする」
「ですが、次の試験条件を――」
「アリス嬢」
「……承知しましたわ」
アリスは名残惜しそうに設計図から離れた。
リリィは、疲れている研究員たちへ声をかけながら、一人ずつ菓子を配っていった。
「甘い物を召し上がれば、少しはお疲れも取れると思います」
「ありがとうございます、リリィ様」
「どうぞ、飲み物も温かいうちに」
張り詰めていた開発室に、焼き菓子の甘い香りが広がる。
研究員たちはようやく手を止め、山積みになった資料の隙間へ皿を置いた。
「おいしいですわ」
一口食べたアリスの表情が、僅かに緩んだ。
「当然だ。リリィの作る菓子が一番おいしい!」
マクシミリアンは、焼き菓子を手に取りながら誇らしげに言った。
「脳に糖分が染み渡るようですわ……」
「そうだろう、そうだろう」
アリスは答えず、皿に残っていた最後の焼き菓子へ手を伸ばした。
「待て! それは私の分だ!」
マクシミリアンが慌てて手を伸ばす。
しかし、僅かに遅かった。
アリスは既に焼き菓子を口へ入れている。
「食べたな!」
「早い者勝ちですわ」
「君はさっき食べただろう!」
マクシミリアンの声に、開発室から小さな笑いが起きる。
ほんの僅かな時間ではあったが、失敗続きで沈んでいた空気が和らいだ。
リリィは皆の様子を見ながら、手にした茶を飲もうとした。
その時だった。
何気なく壁へ向けた視線が、一枚の紙の上で止まった。
それは、ベレニケ領の洞窟で記録した古代魔道具の図面だった。
装置全体の形だけでなく、表面に刻まれていた古代文字や紋も、できる限り正確に写し取られている。
リリィの視線は、その中の一つの紋へ引き寄せられた。
三つの曲線が重なり、その中央を一本の線が貫いている。
ベレニケ領の洞窟で実物を見た時にも、どこかで見たような気がしていた。
しかし、あの時はどこで見たものなのか思い出せず、勘違いだと思ってそれ以上考えることはなかった。
リリィは手にした茶を置き、紋を見つめた。
どこで見たのだろう。
同じ形を、いつ見たのだろう。
記憶をたどるうちに、幼い頃の光景が蘇った。
崩れかけた石壁。
雑草に覆われた石畳。
途中で折れ、何本かだけが残された古い柱。
大人たちからは、危険だから入ってはいけないと何度も言われていた。
それでも幼いリリィは、友人たちと隠れて中へ入り、古い遺跡を遊び場にしていた。
その柱の一つに、よく似た紋が刻まれていた。
「……あの柱」
リリィの口から、小さな声が漏れた。
少し離れた場所でアリスに焼き菓子を奪われたことを嘆いていたマクシミリアンが、その声に気づいた。
「リリィ?」
返事がない。
リリィは壁の図面を見つめたまま動かなかった。
マクシミリアンは皿を置き、彼女の隣へ歩み寄った。
「どうした? 何か気になるものがあるのか?」
声をかけられたリリィは、ようやく我に返った。
「あ……申し訳ありません。こちらの紋が、少し気になりまして」
リリィが指さすと、マクシミリアンも図面へ目を向けた。
「ベレニケ領の古代魔道具に刻まれていた紋だな」
「はい。洞窟で見た時にも、以前どこかで見たような気がしていたのです」
その言葉を聞き、アリスの手が止まった。
セドリックも、持っていた飲み物を机へ置く。
「思い出したのか?」
マクシミリアンが尋ねた。
リリィは、図面の紋を見つめながら頷いた。
「幼い頃、古い遺跡で遊んだことがあるのです。入ってはいけないと言われていた場所なのですが……」
「入ってはいけない場所で遊んでいたのか?」
「幼い頃の話です!」
リリィは頬を赤らめて反論した。
「今は、そのことではなくて……。遺跡に残されていた柱に、これとよく似た紋が刻まれていたのです」
開発室にいた者たちの視線が、一斉にリリィへ集まった。
アリスは椅子から立ち上がり、図面の前へ近づく。
「リリィ様。その遺跡は、どちらにありますの?」
リリィは、記憶の中にある遺跡の場所を確かめるように、ゆっくりと答えた。
「ランバート領です」
「ランバート領……」
カイルが、その名を繰り返す。
「はい。領内の外れにある古い遺跡です。ランバート領では古代文明の遺跡とは認識されておらず、崩れた旧神殿として記録されていますが、私が幼い頃には、崩れずに残っている柱や石壁がいくつもありました」
「紋は、これと全く同じでしたか?」
セドリックが尋ねる。
「全く同じかどうかまでは分かりません。幼い頃の記憶ですので……。ですが、三つの曲線と、中央を通る一本の線は同じだったと思います」
僅かな手掛かりだった。
幼い頃の記憶であり、紋が完全に一致しているとも限らない。
それでも、王宮に残された資料からは、これ以上の手掛かりを得られていない。
ベレニケ領の古代魔道具と同じ文明によって作られた遺跡が、ランバート領に残されている可能性がある。
アリスの瞳に、先ほどまでとは違う光が戻った。
「その遺跡について、詳しく調べる必要がありますわね」




