第九話 自由
「……え?」
それ以外の言葉が出てこなかった。
外す。
カイルは確かに、そう言った。
「……何を、ですか?」
「奴隷契約」
「それは、分かっています」
「じゃあ何を聞いたの?」
「……」
フィオナ自身にも分からなかった。
聞き間違いではないのか。
別の意味があるのではないか。
そう思ったのかもしれない。
カイルは不思議そうな顔をしている。
まるで、本当に大したことではないかのように。
「カイル様」
「うん」
「なぜですか?」
「なぜって……」
今度はカイルが困る番だった。
「もう必要ないから?」
「必要が……」
フィオナは言葉を失う。
奴隷契約。
主人からの命令に逆らうことを許さず、逃亡を防ぎ、所有者を明確にするための魔法。
何年も。
当たり前のように、自分の身体に刻まれていたもの。
「ですが、私はまだ……」
「まだ?」
「……十分に、お役に立てておりません」
「え」
カイルが目を瞬いた。
「襲撃の際には私を守った。森でも魔物を倒した。水路の異変も見つけた」
指を折りながら数え始める。
「十分じゃない?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあどういう意味?」
「私は……」
言葉が続かなかった。
自分でも、何を言おうとしているのか分からない。
もっと働かなければ。
もっと役に立たなければ。
そうでなければ。
自分をここに置いておく理由がない。
「……契約を解除してしまえば」
「うん」
「私を置いておく理由も、なくなるのでは?」
口にしてから気づいた。
随分とおかしなことを言っている。
自由にされるというのに。
自分は、そのことを恐れている。
カイルはしばらく黙っていた。
「フィオナ」
「はい」
「僕、契約があるからフィオナをここに置いてるわけじゃないよ」
「……」
「護衛としていてほしいから、いてもらってる」
「ですが――」
「それに」
カイルは頬杖をついた。
「契約で無理やり従わせてる相手を信用する方が、僕は難しいかな」
「……信用?」
「うん」
何でもないように頷く。
「契約を外したら、フィオナは逃げられる」
「……はい」
「僕の命令も無視できる」
「はい」
「その気になったら僕を見捨てることもできるし、たぶん寝てる僕を襲うことだってできる」
「しません」
「うん。知ってる」
あまりに迷いなく返されて、フィオナは黙った。
「だから外していいでしょ?」
「……なぜ、そうなるのですか」
「その状態でも残ってくれるなら、その方が信用できるから」
「……」
理解できない。
やはり、この人は時々理解できないことを言う。
普通は逆ではないのか。
裏切れないようにする。
逃げられないようにする。
命令へ逆らえないようにする。
そうするための契約なのだから。
「もちろん」
カイルが続ける。
「残るかどうかも、フィオナが決めればいいよ」
「私が?」
「フィオナ以外に誰が決めるの?」
「……」
まただ。
ここへ来てから何度、この感覚を味わっただろう。
自分で決める。
自分が選ぶ。
カイルは簡単にそう言う。
けれどフィオナにとって、それは命令に従うよりずっと難しかった。
「まあ、今日はもう遅いし」
カイルが椅子から立ち上がる。
「セバス、解除ってここでもできるよね?」
「ええ。必要なものは一通り持参しております」
「さすが」
「カイル様が何を必要となさるか予測できませんので」
「なんか含みない?」
「気のせいでございます」
セバスチャンは涼しい顔だった。
「では明朝、準備いたしましょう」
「お願い」
「承知いたしました」
話が進んでいく。
フィオナだけが、その場に置いていかれているようだった。
「あの」
三人の視線が集まる。
「……本当に、よろしいのですか?」
カイルが首を傾げた。
「フィオナが嫌ならやめるけど」
「……」
その返事も予想外だった。
解除することすら強制しない。
「いえ」
フィオナは小さく首を振った。
「お願いいたします」
「分かった」
カイルは笑った。
「じゃあ明日ね」
それだけだった。
◇
その夜。
フィオナはなかなか眠れなかった。
与えられたばかりの部屋。
柔らかなベッド。
静かな夜。
目を閉じても、先ほどの言葉ばかりが浮かんでくる。
『残るかどうかも、フィオナが決めればいいよ』
「……私が」
呟く。
契約がなくなる。
主人の命令に絶対服従する必要もなくなる。
逃げてもいい。
どこへ行ってもいい。
そんなことを突然言われても、何をすればいいのか分からない。
自由。
その言葉は知っている。
昔は、自分にもあったはずだ。
森を走り。
弓を持ち。
家族と食卓を囲んで。
明日何をするかを、自分で考えていた頃が。
「……」
そこから先を思い出しそうになって、フィオナは目を閉じた。
今はいい。
今夜まで考える必要はない。
そう思っても。
結局、眠りについたのは随分と遅くなってからだった。
◇
翌朝。
屋敷の一室に、小さな魔法陣が描かれていた。
複雑なものではない。
床に円が描かれ、その内側にいくつかの文字が並んでいる。
中央には椅子が一つ。
「こちらへ」
セバスチャンに促され、フィオナは椅子へ腰を下ろした。
アリアも少し離れたところに立っている。
カイルは正面。
「緊張してる?」
「……少し」
「痛くはないらしいよ」
「カイル様」
「何?」
「ご自分で解除されるのに、なぜ伝聞なのですか」
「やったことないから」
「……」
「大丈夫でございます」
セバスチャンが静かに割って入った。
「奴隷契約の解除そのものに危険はございません。契約者と被契約者、双方の意思が確認できれば解除できます」
「双方の……」
フィオナはその言葉を繰り返した。
「はい」
セバスチャンが頷く。
「強制的に解除されるものではございません」
「……そうなのですね」
そんなことすら知らなかった。
契約を結ばれた時には、誰も説明してくれなかったから。
「では」
セバスチャンがカイルを見る。
「カイル様。魔法陣へ手を」
「分かった」
カイルが円の端へ手を置く。
淡い光が走った。
床に描かれた文字が、一つずつ浮かび上がる。
「契約者の意思を確認いたします。カイル様。フィオナさんに対する奴隷契約を破棄なさいますか?」
「うん」
迷いはない。
「破棄する」
光が一段強くなる。
身体の奥が僅かに熱くなった。
奴隷印が反応している。
フィオナは無意識に息を止めた。
「続いて、被契約者本人の意思を確認いたします」
セバスチャンがフィオナを見る。
「あなたの名を」
「……」
名前。
ほんの一瞬。
奴隷市場でのことを思い出した。
『君の名前は?』
あの時も。
カイルに聞かれて、自分の名前を口にした。
「……フィオナ」
声が僅かに震えた。
一度息を吸う。
「私の名は、フィオナです」
魔法陣が光る。
「フィオナさん。あなたはこの契約の解除を望みますか?」
「……」
カイルを見る。
いつもの顔。
何かを命じるでもない。
答えを急かすでもない。
ただ待っている。
決めるのは自分。
昨日、そう言われた。
「……はい」
フィオナは答えた。
「私は、奴隷契約の解除を望みます」
瞬間。
身体の奥を何かが通り抜けた。
「……っ」
痛みではない。
長い間、身体のどこかに引っかかっていたものが抜け落ちていくような。
奴隷印が熱を持つ。
けれど、それもほんの一瞬。
光が弱くなる。
やがて。
消えた。
「……」
フィオナはそこへ手を触れた。
ない。
何度触れても。
もう、そこには何もない。
「解除を確認いたしました」
セバスチャンの声が聞こえる。
「これをもって、フィオナさんとカイル様の奴隷契約は完全に消滅しております」
「……消滅」
「はい」
フィオナは自分の手を見る。
次に足。
部屋。
窓。
何も変わっていない。
「……何も」
「ん?」
「何も、変わりませんね」
口から自然に出ていた。
カイルが少し笑う。
「まあ、急に羽が生えたりはしないでしょ」
「そういう意味ではありません」
「分かってるよ」
いつも通りだった。
それが、少しだけありがたかった。
昨日までと同じ部屋。
昨日までと同じカイル。
昨日までと同じ自分。
なのに。
もう、自分は奴隷ではない。
「フィオナ」
「はい」
カイルが正面へ来る。
「じゃあ、改めて聞くけど」
胸の奥が僅かに強張る。
「これからどうする?」
「……」
分かっていた。
きっと聞かれると思っていた。
それでも答えは用意できていなかった。
「どこか行きたいところがあるなら、止めないよ」
「……」
「エルフのところへ帰りたいなら、探すのも手伝うし」
帰る。
その言葉に胸が痛む。
帰る場所など。
もう――。
「もちろん、ここに残ってもいい」
顔を上げた。
「残って……いいのですか?」
「うん」
「契約は、もうありません」
「知ってる」
「私はもう、カイル様の所有物では――」
「最初から、そういうつもりで見てないよ」
「……」
また。
何でもないことのように言う。
「でも、残るなら一個変えよう」
「何をでしょうか」
「護衛としてちゃんと雇う」
「……雇う?」
「うん。働いてもらうんだから、給料も払う」
「給料」
「そう」
「私に?」
「他に誰に払うの」
「……」
アリアが少し離れた場所で口元を押さえている。
笑っているらしい。
「部屋と食事は屋敷で用意する。あとは給金。休みも――」
「休み?」
「そこからなの?」
カイルが頭を抱えた。
「セバス。この辺あとでちゃんと説明してあげて」
「承知いたしました」
「私、休みは必要ありません」
「必要です」
カイルとアリアの声が重なった。
「……」
「ほら」
「何がですか」
「僕だけじゃない」
なぜ少し嬉しそうなのだろう。
「それで」
カイルが改めてフィオナを見る。
「どうする?」
フィオナは俯いた。
残れと言われたわけではない。
出ていけとも言われていない。
何を選んでもいい。
怖い。
こんなにも、自分で決めるということが怖いとは思わなかった。
けれど。
この数日を思い返す。
馬車。
襲撃。
ヘラクレス。
心眼。
荒れた屋敷。
水路。
昨日与えられた、自分の部屋。
そして。
『その状態でも残ってくれるなら、その方が信用できるから』
ゆっくり顔を上げる。
「……私は」
声が震えそうになる。
それでも続けた。
「ここに、残りたいです」
カイルは何も言わず、少しだけ笑った。
「そっか」
それだけ。
「じゃあ、改めて」
右手を差し出してくる。
「僕の護衛、お願いしていい?」
その手を見る。
命令ではない。
契約でもない。
断ることもできる。
だから。
フィオナは、自分から手を伸ばした。
「……はい」
カイルの手を握る。
「お任せください」
「よろしく、フィオナ」
「はい。カイル様」
その言葉は。
昨日までと同じ呼び方なのに。
少しだけ違って聞こえた。
◇
夜。
自分の部屋に戻ったフィオナは、ベッドへ腰を下ろした。
静かな部屋。
窓の向こうから虫の声が聞こえる。
身体に触れる。
やはり、印はない。
「……自由」
口にしてみる。
まだ、よく分からない。
明日から急に何かが変わるわけでもないだろう。
朝になれば起きて。
カイルの護衛をして。
きっとまた領地を歩き回る。
それは昨日までと同じ。
でも。
昨日までは、そこにいるしかなかった。
今は。
自分で、ここにいることを選んだ。
「……」
それだけの違いが。
なぜか、とても大きなものに思えた。
フィオナはベッドへ横になる。
天井を見る。
『どうするかは、フィオナが決めればいいよ』
「……難しいですね、カイル様」
小さく呟く。
けれど。
ほんの少しだけ。
悪くないとも思った。




