第八話 使用人
朝。
屋敷の前で弓の弦を確かめていたフィオナは、森の向こうから聞こえてきた音に顔を上げた。
車輪の音。
一台ではない。
「……?」
耳を澄ませる。
馬の蹄。
荷車の軋む音。
少なくとも三台。
それ以上かもしれない。
フィオナはすぐにヘラクレスを手に取り、屋敷へ戻った。
「カイル様」
「んー……」
返事はした。
しかし机に突っ伏したまま動かない。
「カイル様」
「起きてるよ」
「では顔を上げてください」
「……厳しいなあ」
ようやく顔を上げる。
昨晩、妙な夢でも見たのか、朝から少しぼんやりしていた。
もっとも、普段から眠そうなので大した違いではない。
「街道から複数の馬車がこちらへ向かっています」
「馬車?」
「はい。少なくとも三台。人数もそれなりにいると思われます」
「ああ」
カイルは欠伸を一つした。
「たぶん来たんだ」
「……来た?」
「うちの人たち」
「うちの……?」
カイルは窓際まで歩いていき、遠くを眺める。
しばらくして、小さく笑った。
「やっぱり」
フィオナも隣から外を見る。
確かに街道の先から数台の馬車が近づいていた。
先頭には普通の箱馬車。
その後ろには荷物を山ほど積んだ荷馬車が続いている。
「帝都から来られた方々ですか?」
「うん。屋敷の使用人たち」
「使用人……」
「僕よりこの屋敷をちゃんと運営できる人たちだよ」
「……それは領主としていかがなものかと思いますが」
「僕もそう思う」
「改善してください」
「そこまで言う?」
どうやら冗談ではないらしい。
「……私のことは、ご存知なのですか?」
「ああ、一応知らせてあるよ」
「いつの間に」
「ここに着いてから。速達便で手紙出した」
フィオナは少しだけ嫌な予感がした。
「……何とお書きになったのです?」
「護衛としてエルフの奴隷を一人買ったよ、って」
「それだけですか?」
「弓がすごく上手いとも書いた」
「そういうことを聞いているのではありません」
「大丈夫。たぶん伝わってるって」
なぜだろう。
それを聞いても全く安心できなかった。
フィオナは再び街道へ視線を向けた。
使用人。
その言葉に、わずかに身体が強張る。
カイル以外の人間。
ここ数日、町の住民とは話した。
彼らから敵意を向けられたことはない。
だが、これから同じ屋敷で生活するとなると話は違う。
「……」
「フィオナ?」
「はい」
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
「警戒しているように見えましたか?」
「ちょっとだけ」
カイルの右目がこちらを見ている。
心眼。
そう思い、フィオナは小さく息を吐いた。
「……そうですね。少し」
「まあ、会えば分かるよ」
「どういう方々なのですか?」
「普通の人たち」
「カイル様の普通は、少々信用できません」
「ひどい」
そう話している間にも、馬車は屋敷へ近づいてくる。
やがて先頭の馬車が門の前で止まった。
後続の荷馬車も次々と並ぶ。
思っていたより多い。
食料。
家具。
木箱。
衣類らしき荷物。
修繕道具。
さらには人まで。
帝都から屋敷そのものを持ってきたのではないかと思うほどだった。
「……随分と」
「多いね」
「カイル様が驚くのですか?」
「僕、荷物の準備任せてたから」
「……」
フィオナは何も言わなかった。
言えばまた小言になりそうだった。
先頭の馬車の扉が開く。
最初に降りてきたのは、一人の女性だった。
年齢はカイルやフィオナよりも上だろう。
落ち着いた色の服。
きっちりとまとめられた髪。
柔らかい雰囲気を持ちながら、立ち姿には隙がない。
女性は屋敷を見上げ、それからカイルを見る。
「カイル様」
「……はい」
カイルの声が少しだけ弱くなった。
フィオナは横目で彼を見る。
「お元気そうで何よりでございます」
「うん。元気だよ」
「それは結構でございます」
女性はにこりと笑った。
「では一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「……どうぞ」
「なぜ、私どもの到着を待たずにお一人で出発されたのです?」
「一人じゃないよ」
カイルはフィオナを指した。
「フィオナいるし」
「そういう問題ではございません」
「はい」
即座に負けた。
フィオナは思わず目を瞬いた。
皇子。
帝国の皇族。
その人物が、使用人らしき女性に叱られている。
しかも言い返そうともしていない。
「辺境でございますよ? 魔物の情報も十分ではなく、屋敷の状態すら確認できておりませんでした。それを先行されるなど――」
「いや、ほら。早めに見ておこうかなって」
「普段はあれほど仕事を後回しになさるのに、なぜこのような時だけ行動が早いのです」
「僕も不思議」
「カイル様」
「ごめんなさい」
謝った。
フィオナは少しだけ呆然とする。
主人が使用人に謝る。
もちろん、カイルならやりそうだとは思った。
それでも実際に目の前で見ると妙な感覚があった。
女性は小さくため息をついた後、ようやくフィオナへ向き直った。
「失礼いたしました」
「い、いえ」
「初めまして。アリアと申します。こちらの屋敷でメイド長を務めております」
アリアは自然な動作で頭を下げた。
フィオナも慌てて頭を下げる。
「フィオナです。カイル様の護衛をしております」
「フィオナ様ですね。カイル様から少しお話を伺っております」
「……様?」
「はい?」
「私に敬称は必要ありません」
思わず言ってしまった。
アリアは少しだけ考える。
「では、フィオナさんとお呼びしても?」
「……はい」
「よろしくお願いいたします、フィオナさん」
「こちらこそ……」
妙だった。
奴隷であることを聞いているはずなのに。
アリアはそれ以上何も聞かなかった。
嫌な顔もしない。
同情するような視線すらない。
ただ、初めて会った人間にするように普通に挨拶をした。
それだけ。
なのに、その「普通」がフィオナには少し難しかった。
「アリア。僕には?」
「何がでしょう?」
「僕にはよろしくとかないの?」
「先ほど申し上げたいことは全て申し上げました」
「扱い違わない?」
「日頃の行いかと」
「……フィオナ、笑った?」
「笑っておりません」
「今ちょっと笑ったよね」
「気のせいです」
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ口元が緩んだ。
その直後、別の馬車から一人の老人が降りてきた。
白髪。
背筋は年齢を感じさせないほど真っ直ぐ伸びている。
服装も無駄なく整えられており、一目でただの使用人ではないと分かった。
「お久しゅうございます、カイル様」
「セバス」
「ご無事で安心いたしました」
「アリアにも言ったけど、ちゃんと元気だよ」
「それは何よりでございます」
老人――セバスチャンは穏やかに微笑んだ。
そして屋敷を見る。
「……」
「セバス?」
「……」
「何か言ってよ」
「拝見しております」
「その沈黙怖いんだけど」
セバスチャンは屋敷の屋根を見る。
壁を見る。
窓を見る。
庭を見る。
最後に、入り口付近で妙に元気よく育っている木々を見る。
「カイル様」
「はい」
「よく、こちらでお過ごしになられましたね」
「フィオナにも似たようなこと言われた」
「では、フィオナさんは良識をお持ちのようで」
「僕には?」
「申し上げるまでもないかと」
「セバスまでひどい」
フィオナはまた少しだけ口元を緩めた。
今度はカイルに見られないように。
「失礼」
セバスチャンの視線がフィオナへ向く。
「ご挨拶が遅れました。執事長を務めております、セバスチャンと申します」
「フィオナです」
「道中、カイル様をお守りいただいたと伺っております。ありがとうございます」
「いえ。私は護衛ですので」
「それでも、感謝すべきことに変わりはございません」
「……」
まただ。
カイルもそうだった。
当然の仕事をしただけなのに、礼を言う。
フィオナには、まだそれにどう返せばいいのか分からない。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
そう答えるのが精一杯だった。
セバスチャンは満足そうに頷く。
その時、彼の目がフィオナの肩へ向いた。
ヘラクレス。
「その弓は、ヘラクレスでございますね」
フィオナは思わず弓へ手を添えた。
「ご存知なのですか?」
「ええ。少々、縁がございまして」
「縁……」
フィオナはカイルを見る。
「カイル様」
「なに?」
「やはりこれは、相当な武器なのではありませんか?」
「だから言ったでしょ。いい弓だって」
「その説明では足りません」
「使いやすい?」
「そういう問題ではありません」
横でセバスチャンが僅かに笑った。
「後ほど、状態を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
「はい。もちろんです」
「ありがとうございます」
それ以上、セバスチャンは何も言わなかった。
フィオナも少し気にはなったが、後ろでは既に荷物を降ろす作業が始まっている。
今はそれどころではなさそうだった。
◇
「それは厨房へお願いします」
「こちらの箱は二階へ」
「家具は一度、玄関広間へまとめてください」
アリアの声が屋敷の中に響く。
さっきまで静かだった屋敷が嘘のようだった。
人が歩き。
木箱が運ばれ。
家具が組み立てられ。
厨房からは物音がする。
カイルとフィオナの二人だけだった屋敷に、急に生活の音が増えた。
「……」
フィオナは廊下の隅で、その様子を眺めていた。
奇妙だった。
昨日までは、広すぎる屋敷だった。
使っていない部屋ばかりで、夜になれば自分たちの足音しか聞こえない。
今は違う。
誰かの話し声がする。
笑い声も聞こえる。
「フィオナさん」
「はい」
振り返るとアリアが立っていた。
「少しよろしいですか?」
「はい」
「こちらへ」
案内されたのは二階だった。
廊下を歩き、一つの扉の前でアリアが止まる。
「こちらをお使いください」
「……?」
扉が開く。
中にはベッド。
小さな机。
椅子。
収納棚。
窓からは庭と森が見える。
豪華ではない。
だが、きれいに整えられていた。
「……何の部屋でしょうか?」
アリアは少し不思議そうな顔をした。
「フィオナさんのお部屋ですが」
「私の?」
「はい」
「……」
フィオナはもう一度部屋を見る。
ベッド。
机。
棚。
「私一人で、ですか?」
「そのつもりでございます」
「ですが私は護衛です」
「存じております」
「でしたら、カイル様の部屋の前で休めれば十分です」
アリアが困ったように笑う。
「それでは休んだことになりません」
「私は慣れておりますので」
言った直後。
「それは駄目だよ」
背後から声がした。
カイルだった。
「カイル様」
「フィオナ、寝て」
「ですが、夜間の護衛が――」
「夜中ずっと起きてたら、三日後には動けなくなるよ」
「その程度で倒れるほど――」
「駄目」
珍しく、少しだけ強い声だった。
フィオナは言葉を止める。
すぐにカイルはいつもの調子へ戻った。
「何かあったら呼ぶし。そもそも今日から人も増えたんだから、一人で全部やらなくていいでしょ」
「……」
「それに」
カイルが部屋を見る。
「ここ、僕の部屋より綺麗じゃない?」
「カイル様のお部屋もこれから整えます」
「よかった」
アリアが呆れたように息をつく。
「ですからフィオナさん。どうぞこちらをお使いください」
「……本当に?」
「もちろんです」
「……」
フィオナは部屋へ一歩入った。
床がわずかに軋む。
窓から入った風が銀色の髪を揺らした。
自分の部屋。
その言葉が妙に落ち着かない。
奴隷になる前。
故郷にいた頃。
自分の寝る場所はあった。
けれど、それは遠い記憶だった。
ここ数年、自分だけの場所などなかった。
「……ありがとうございます」
やっと、それだけ言えた。
「いえ」
アリアはそれ以上何も言わなかった。
そのことがフィオナにはありがたかった。
◇
夜。
「……おいしい」
思わず声に出た。
温かいスープ。
焼かれた肉。
柔らかいパン。
簡単な料理ばかりだが、昨日までとは明らかに違う。
「でしょ?」
なぜかカイルが得意そうだった。
「カイル様が作ったわけではないでしょう」
「僕の料理人が作った」
「それを自慢するのですか?」
「僕が雇ってるから半分くらい僕の功績じゃない?」
「違うと思います」
向かいでアリアが笑う。
セバスチャンは何も言わず食事を続けていた。
こうして誰かと同じ食卓を囲むことにも、まだ慣れない。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ。
本当に少しだけ。
懐かしいような気がした。
「フィオナさん」
食事が終わった頃。
アリアが静かに声をかけてきた。
「はい」
「一つ、お聞きしたいことがございます」
カイルも顔を上げる。
「フィオナさんの奴隷契約についてなのですが」
その言葉に。
フィオナの身体が僅かに固まった。
無意識に、自分の身体へ視線を落とす。
まだ残っている。
奴隷であることを示す印。
「……まだ、残っているのですね?」
アリアがカイルを見る。
「ああ」
カイルは水を一口飲んだ。
まるで、今日の夕食について話しているような調子で。
「それね」
フィオナは顔を上げた。
カイルと目が合う。
「明日、外そっか」
「……え?」
思わず。
それ以外の言葉が出てこなかった。




