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花咲く辺境の第六皇子  作者: じゃこー
第一章 辺境に根を下ろす
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第七話 夢

 水の流れる音がする。


 屋敷へ戻る途中、フィオナは何度か後ろを振り返っていた。


 昨日までは、底が見えるほど浅かった水路。


 今はそこを、夕日を映した水が流れている。


 水路のそばでは子供たちがしゃがみ込み、流れていく葉を追いかけていた。


 少し離れたところでは、大人たちが水の量を確かめながら何かを話している。


 たった一日。


 いや、実際には半日にも満たない。


 それだけで町の景色が少し変わった。


「フィオナ?」


 前から声が飛んでくる。


 振り向けば、カイルが少し先で立ち止まっていた。


「置いてくよ」


「申し訳ありません。今参ります」


 フィオナは小走りで追いついた。


「何見てたの?」


「水路を」


「ああ」


 カイルも一度だけ振り返る。


「ちゃんと流れてるね」


 それだけ言って、また歩き出した。


 本人にとっては、本当にその程度のことなのかもしれない。


 フィオナには、それが少し不思議だった。


     ◇


 この男に買われて、まだ数日も経っていない。


 それなのに、随分長い間一緒にいるような気がする。


 最初に見た時は、変わった人間だと思った。


 奴隷市場へやってきて、開口一番、


『君って、戦闘できる?』


 だったのだ。


 しかも自分が弓を使えることまで知っていた。


 怪しい。


 当然、そう思った。


 それが第六皇子だと知った時には、別の意味で怪しくなった。


 皇族でありながら皇位には興味がなく。


 命を何度も狙われているくせに、その話を他人事のようにする。


 護衛を買っておきながら、本人も十分戦える。


 そして、神級武器であるヘラクレスを、買ったばかりの奴隷に何の迷いもなく渡した。


 理解できないことばかりだった。


 今も、それはあまり変わっていない。


「……カイル様」


「ん?」


「お疲れでは?」


「疲れたよ」


「やはり」


「だから帰ったら寝る」


「先に夕食です」


「分かってるって」


 昨日までは、自分が皇族にこんなことを言うなど考えもしなかった。


 ましてや、自分の主人に。


 だがカイルは気にする様子もない。


 むしろ注意されても、面倒そうな顔をするだけだ。


 怒らない。


 手を上げない。


 命令して黙らせようともしない。


 それもフィオナにはまだ慣れなかった。


 奴隷市場を出た直後。


 身体に触れられそうになって、自分は反射的に身を引いた。


 あの時もそうだった。


 怒るどころか、カイルの方が謝った。


 心眼について尋ねた時も。


 自分の情報が見えていたことを知り、思わず警戒した。


 すると彼は、


『嫌だったなら、ごめん』


 そう言った。


 簡単な言葉だった。


 けれど、フィオナには理解するのに少し時間がかかった。


 主人が奴隷の機嫌を気にする必要などない。


 少なくとも、今までフィオナが知っていた世界ではそうだった。


 自分が不快かどうか。


 嫌かどうか。


 痛いかどうか。


 そんなものを気にする人間はいなかった。


 だから。


 カイルの行動は、時々フィオナを困らせる。


「……」


 前を歩くカイルを見る。


 今日もそうだった。


 町に着いて。


 荒れた道を見つけ。


 荷車が立ち往生していれば、何でもないことのように手を貸した。


 水が少ないと分かれば、その原因を探しに行った。


 そして、止まっていた水を町へ戻した。


 領主なら当然なのだろうか。


 フィオナには分からない。


 貴族というものに、良い印象はほとんどなかった。


 けれど。


 水が戻った時の住民たちの顔を思い出す。


 カイルは、感謝されることに慣れているようには見えなかった。


 むしろ少し困っていた。


 それでも最後には、


『また問題あったら教えて』


 と言っていた。


 あの時。


 ほんの少しだけ。


 ――この人なら。


 そう思ってしまった。


 その先に続く言葉は、自分でも分からない。


 分からないから、考えないようにした。


 まだ早い。


 会ったばかりだ。


 信じるには。


 何度も、そう自分へ言い聞かせている。


 それなのに。


「フィオナ」


「はい」


「また難しい顔してる」


「……そのような顔をしていましたか?」


「してた」


「カイル様こそ、先ほどから随分楽しそうですが」


「そう?」


「ええ」


「まあ」


 カイルが前を見る。


「昨日よりは、この土地で暮らせそうな気がしてきたから」


 フィオナも町へ目を向けた。


「私もです」


「お」


 カイルがこちらを見る。


「じゃあフィオナも、この土地嫌いじゃない?」


 不意に聞かれた。


「……まだ、分かりません」


 正直に答える。


「そっか」


 カイルはそれだけだった。


 少しも残念そうにはしない。


「そのうち好きになってくれたら嬉しいけどね」


「……なぜです?」


「一緒に住むんだから、その方がいいでしょ」


 フィオナは答えなかった。


 一緒に住む。


 その言葉が妙に耳に残った。


 主人の屋敷で働く。


 そう言われれば何とも思わなかっただろう。


 だがカイルは、なぜかそういう言い方をしない。


 暮らす。


 一緒に住む。


 まるで、自分にもそこに居場所があるような。


「……そうですね」


 小さく答えた。


 カイルには聞こえなかったかもしれない。


 それでよかった。


     ◇


 屋敷へ戻った後も、カイルはすぐには眠れなかった。


 フィオナが許さなかったからだ。


「もういいでしょ」


「まだです」


「もう三枚読んだよ」


「三枚しか、です」


 机の上には、領地についてまとめられた資料が広がっている。


「人口、農地、税収……」


 数字を見るだけで眠くなる。


「今日実際に見た方が分かりやすかったんだけど」


「資料と現状を比較することにも意味があります」


「フィオナってこういうの得意なの?」


「得意ではありません」


「じゃあ一緒にやろうよ」


「私は護衛です」


「さっきから僕を働かせてる人が何言ってるの」


「……」


 フィオナが黙った。


「ここ」


 僕は隣の椅子を軽く叩く。


「どうせ僕一人だと寝るから」


「ご自覚がおありなのですね」


「あるよ」


 少し迷ったあと、フィオナは向かいではなく隣の椅子へ座った。


 二人で資料を見る。


 人口。


 畑。


 水路。


 魔物の被害。


 ここ数年で減った税収。


 数字を見る限り、状況はやっぱり良くない。


 でも。


「この土地、元々は今より人いたんだね」


「そのようですね」


「十年くらい前から減ってる」


「魔物の被害が増え始めた時期とも近いです」


「なるほど」


 一人で読んだ時は全く覚えていなかった情報が、少しずつ繋がっていく。


「……フィオナ」


「はい」


「意外とこういうの向いてるんじゃない?」


「何がです?」


「領主」


「お断りします」


 即答だった。


「僕も断りたい」


「カイル様はもう領主です」


「不公平だ」


「誰に対して仰っているのですか」


 そんなことを話しているうちに、夜もかなり深くなった。


「今日はここまでにしよ」


「そうですね」


 珍しくフィオナも反対しなかった。


「明日は?」


「町の東側を確認したいです」


「もう予定決まってるの?」


「問題がありますから」


「僕の予定なのに……」


「何か?」


「なんでもない」


 資料を閉じる。


 部屋を出ていくフィオナの背中を見る。


「おやすみ、フィオナ」


 彼女が振り返る。


 ほんの一瞬、意外そうな顔をした。


「……おやすみなさいませ、カイル様」


 扉が閉じた。


 静かになる。


「さて」


 ベッドへ倒れ込む。


「やっと寝られる」


 今日は本当によく働いた。


 僕にしては。


 目を閉じる。


 すぐに意識が沈んでいった。


     ◇


 目を開ける。


 白い。


 最初に見えたのは、霧だった。


 足元。


 前。


 後ろ。


 どこを見ても、薄白い霧が広がっている。


 音がない。


 風もない。


 町も。


 屋敷も。


 フィオナもいない。


「……」


 僕はゆっくり顔を上げた。


 そこに。


 一本の木が立っている。


 巨大な桜。


 幹だけで、屋敷など簡単に飲み込んでしまいそうなほど太い。


 見上げる。


 枝は霧の向こうへ消えていた。


 頂上など見えない。


 淡い桜色の花びらだけが、風もない空間をゆっくりと舞っている。


「……またか」


 声が霧の中へ吸い込まれていく。


 随分久しぶりな気がする。


 いや。


 違う。


 久しぶりなのは、夢そのものじゃない。


「……前より近いな」


 以前はもっと遠かった。


 霧の向こう。


 輪郭さえ、はっきりとは見えなかった。


 それが今は。


 幹の模様まで分かる。


 手を伸ばせば届きそうなほど近い。


 僕は桜へ向かって一歩進んだ。


 足音はしない。


 もう一歩。


 花びらが一枚、目の前を通り過ぎる。


「……」


 何度見ても。


 分からない。


 この場所が何なのか。


 なぜ自分がここへ来るのか。


 そして。


 なぜ――。


 誰かに呼ばれているような気がするのか。


 桜の向こう。


 深い霧の奥。


 何かがいる。


 そんな気がした。


「……誰?」


 返事はない。


 ただ。


 桜の枝が、僅かに揺れた。


 風など吹いていないのに。


 その瞬間。


 視界が白く染まった。


     ◇


「……っ」


 目を開ける。


 天井。


 昨日、自分で修理した屋敷の天井だった。


 窓の外はまだ暗い。


「……夢か」


 身体を起こす。


 額に手を当てる。


 妙にはっきり覚えている。


 巨大な桜。


 霧。


 舞っていた花びら。


 そして。


「前より……」


 近かった。


 僕はしばらく黙っていた。


 やがて、考えるのが面倒になって布団へ戻る。


「……まあ、いいか」


 今考えたところで答えなど出ない。


 昔からそうだった。


 目を閉じる。


 今度こそ、普通に眠ろう。


 けれど。


 眠りに落ちる直前まで。


 霧の向こうに立つ桜の姿だけは、妙にはっきりと頭に残っていた。


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