第七話 夢
水の流れる音がする。
屋敷へ戻る途中、フィオナは何度か後ろを振り返っていた。
昨日までは、底が見えるほど浅かった水路。
今はそこを、夕日を映した水が流れている。
水路のそばでは子供たちがしゃがみ込み、流れていく葉を追いかけていた。
少し離れたところでは、大人たちが水の量を確かめながら何かを話している。
たった一日。
いや、実際には半日にも満たない。
それだけで町の景色が少し変わった。
「フィオナ?」
前から声が飛んでくる。
振り向けば、カイルが少し先で立ち止まっていた。
「置いてくよ」
「申し訳ありません。今参ります」
フィオナは小走りで追いついた。
「何見てたの?」
「水路を」
「ああ」
カイルも一度だけ振り返る。
「ちゃんと流れてるね」
それだけ言って、また歩き出した。
本人にとっては、本当にその程度のことなのかもしれない。
フィオナには、それが少し不思議だった。
◇
この男に買われて、まだ数日も経っていない。
それなのに、随分長い間一緒にいるような気がする。
最初に見た時は、変わった人間だと思った。
奴隷市場へやってきて、開口一番、
『君って、戦闘できる?』
だったのだ。
しかも自分が弓を使えることまで知っていた。
怪しい。
当然、そう思った。
それが第六皇子だと知った時には、別の意味で怪しくなった。
皇族でありながら皇位には興味がなく。
命を何度も狙われているくせに、その話を他人事のようにする。
護衛を買っておきながら、本人も十分戦える。
そして、神級武器であるヘラクレスを、買ったばかりの奴隷に何の迷いもなく渡した。
理解できないことばかりだった。
今も、それはあまり変わっていない。
「……カイル様」
「ん?」
「お疲れでは?」
「疲れたよ」
「やはり」
「だから帰ったら寝る」
「先に夕食です」
「分かってるって」
昨日までは、自分が皇族にこんなことを言うなど考えもしなかった。
ましてや、自分の主人に。
だがカイルは気にする様子もない。
むしろ注意されても、面倒そうな顔をするだけだ。
怒らない。
手を上げない。
命令して黙らせようともしない。
それもフィオナにはまだ慣れなかった。
奴隷市場を出た直後。
身体に触れられそうになって、自分は反射的に身を引いた。
あの時もそうだった。
怒るどころか、カイルの方が謝った。
心眼について尋ねた時も。
自分の情報が見えていたことを知り、思わず警戒した。
すると彼は、
『嫌だったなら、ごめん』
そう言った。
簡単な言葉だった。
けれど、フィオナには理解するのに少し時間がかかった。
主人が奴隷の機嫌を気にする必要などない。
少なくとも、今までフィオナが知っていた世界ではそうだった。
自分が不快かどうか。
嫌かどうか。
痛いかどうか。
そんなものを気にする人間はいなかった。
だから。
カイルの行動は、時々フィオナを困らせる。
「……」
前を歩くカイルを見る。
今日もそうだった。
町に着いて。
荒れた道を見つけ。
荷車が立ち往生していれば、何でもないことのように手を貸した。
水が少ないと分かれば、その原因を探しに行った。
そして、止まっていた水を町へ戻した。
領主なら当然なのだろうか。
フィオナには分からない。
貴族というものに、良い印象はほとんどなかった。
けれど。
水が戻った時の住民たちの顔を思い出す。
カイルは、感謝されることに慣れているようには見えなかった。
むしろ少し困っていた。
それでも最後には、
『また問題あったら教えて』
と言っていた。
あの時。
ほんの少しだけ。
――この人なら。
そう思ってしまった。
その先に続く言葉は、自分でも分からない。
分からないから、考えないようにした。
まだ早い。
会ったばかりだ。
信じるには。
何度も、そう自分へ言い聞かせている。
それなのに。
「フィオナ」
「はい」
「また難しい顔してる」
「……そのような顔をしていましたか?」
「してた」
「カイル様こそ、先ほどから随分楽しそうですが」
「そう?」
「ええ」
「まあ」
カイルが前を見る。
「昨日よりは、この土地で暮らせそうな気がしてきたから」
フィオナも町へ目を向けた。
「私もです」
「お」
カイルがこちらを見る。
「じゃあフィオナも、この土地嫌いじゃない?」
不意に聞かれた。
「……まだ、分かりません」
正直に答える。
「そっか」
カイルはそれだけだった。
少しも残念そうにはしない。
「そのうち好きになってくれたら嬉しいけどね」
「……なぜです?」
「一緒に住むんだから、その方がいいでしょ」
フィオナは答えなかった。
一緒に住む。
その言葉が妙に耳に残った。
主人の屋敷で働く。
そう言われれば何とも思わなかっただろう。
だがカイルは、なぜかそういう言い方をしない。
暮らす。
一緒に住む。
まるで、自分にもそこに居場所があるような。
「……そうですね」
小さく答えた。
カイルには聞こえなかったかもしれない。
それでよかった。
◇
屋敷へ戻った後も、カイルはすぐには眠れなかった。
フィオナが許さなかったからだ。
「もういいでしょ」
「まだです」
「もう三枚読んだよ」
「三枚しか、です」
机の上には、領地についてまとめられた資料が広がっている。
「人口、農地、税収……」
数字を見るだけで眠くなる。
「今日実際に見た方が分かりやすかったんだけど」
「資料と現状を比較することにも意味があります」
「フィオナってこういうの得意なの?」
「得意ではありません」
「じゃあ一緒にやろうよ」
「私は護衛です」
「さっきから僕を働かせてる人が何言ってるの」
「……」
フィオナが黙った。
「ここ」
僕は隣の椅子を軽く叩く。
「どうせ僕一人だと寝るから」
「ご自覚がおありなのですね」
「あるよ」
少し迷ったあと、フィオナは向かいではなく隣の椅子へ座った。
二人で資料を見る。
人口。
畑。
水路。
魔物の被害。
ここ数年で減った税収。
数字を見る限り、状況はやっぱり良くない。
でも。
「この土地、元々は今より人いたんだね」
「そのようですね」
「十年くらい前から減ってる」
「魔物の被害が増え始めた時期とも近いです」
「なるほど」
一人で読んだ時は全く覚えていなかった情報が、少しずつ繋がっていく。
「……フィオナ」
「はい」
「意外とこういうの向いてるんじゃない?」
「何がです?」
「領主」
「お断りします」
即答だった。
「僕も断りたい」
「カイル様はもう領主です」
「不公平だ」
「誰に対して仰っているのですか」
そんなことを話しているうちに、夜もかなり深くなった。
「今日はここまでにしよ」
「そうですね」
珍しくフィオナも反対しなかった。
「明日は?」
「町の東側を確認したいです」
「もう予定決まってるの?」
「問題がありますから」
「僕の予定なのに……」
「何か?」
「なんでもない」
資料を閉じる。
部屋を出ていくフィオナの背中を見る。
「おやすみ、フィオナ」
彼女が振り返る。
ほんの一瞬、意外そうな顔をした。
「……おやすみなさいませ、カイル様」
扉が閉じた。
静かになる。
「さて」
ベッドへ倒れ込む。
「やっと寝られる」
今日は本当によく働いた。
僕にしては。
目を閉じる。
すぐに意識が沈んでいった。
◇
目を開ける。
白い。
最初に見えたのは、霧だった。
足元。
前。
後ろ。
どこを見ても、薄白い霧が広がっている。
音がない。
風もない。
町も。
屋敷も。
フィオナもいない。
「……」
僕はゆっくり顔を上げた。
そこに。
一本の木が立っている。
巨大な桜。
幹だけで、屋敷など簡単に飲み込んでしまいそうなほど太い。
見上げる。
枝は霧の向こうへ消えていた。
頂上など見えない。
淡い桜色の花びらだけが、風もない空間をゆっくりと舞っている。
「……またか」
声が霧の中へ吸い込まれていく。
随分久しぶりな気がする。
いや。
違う。
久しぶりなのは、夢そのものじゃない。
「……前より近いな」
以前はもっと遠かった。
霧の向こう。
輪郭さえ、はっきりとは見えなかった。
それが今は。
幹の模様まで分かる。
手を伸ばせば届きそうなほど近い。
僕は桜へ向かって一歩進んだ。
足音はしない。
もう一歩。
花びらが一枚、目の前を通り過ぎる。
「……」
何度見ても。
分からない。
この場所が何なのか。
なぜ自分がここへ来るのか。
そして。
なぜ――。
誰かに呼ばれているような気がするのか。
桜の向こう。
深い霧の奥。
何かがいる。
そんな気がした。
「……誰?」
返事はない。
ただ。
桜の枝が、僅かに揺れた。
風など吹いていないのに。
その瞬間。
視界が白く染まった。
◇
「……っ」
目を開ける。
天井。
昨日、自分で修理した屋敷の天井だった。
窓の外はまだ暗い。
「……夢か」
身体を起こす。
額に手を当てる。
妙にはっきり覚えている。
巨大な桜。
霧。
舞っていた花びら。
そして。
「前より……」
近かった。
僕はしばらく黙っていた。
やがて、考えるのが面倒になって布団へ戻る。
「……まあ、いいか」
今考えたところで答えなど出ない。
昔からそうだった。
目を閉じる。
今度こそ、普通に眠ろう。
けれど。
眠りに落ちる直前まで。
霧の向こうに立つ桜の姿だけは、妙にはっきりと頭に残っていた。




